青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
黔ニ無レシ驢。有二リテ好事者一、船ニ載セ以テ入ル。
黔に驢無し。好事者有りて、船に載せ以て入る。
黔州にはロバがいなかった。物好きな人がいて、(ロバを)船に乗せて(黔州に)入った。
至レバ則チ無レク可レキ用ヰル、放二ツ之ヲ山下一ニ。
至れば則ち用ゐるべき無く、之を山下に放つ。
到着したとき、使い道がなく、ロバを山のふもとに放した。
虎見レルニ之ヲ、尨然タル大ナル物也。以テ為レス神ト。
虎之を見るに、尨然たる大なる物なり。以て神と為す。
虎がロバを見ると、とても大きい生き物であった。そして神だと思った。
蔽二レテ林間一ニ窺レヒ之ヲ、稍ク出デテ近レヅクニ之ニ、憗憗然トシテ莫二シ相知一ル。
林間に蔽れて之を窺ひ、稍く出でて之に近づくに、憗憗然として相知る莫し。
(虎は)林の中に隠れてロバの様子をうかがい、少しずつ(林から)出てロバに近づくと、恭しく慎み深い様子で相手(=ロバ)のことが分からなかった。
他日、驢一タビ鳴ケバ、虎大イニ駭キテ遠ク遁ル。
他日、驢一たび鳴けば、虎大いに駭きて遠く遁る。
ある日、ロバが一声鳴くと、虎は大変驚いて遠くに逃げた。
以為ヘラク且レニ/ル噬レマント己ヲ也ト。甚ダ恐ル。
以為へらく且に己を噬まんとするなりと。甚だ恐る。
※「以為ヘラク」=~だと思う。思うことには~。
※「且ニニ ~一(セ)ント」=再読文字、「且に ~(せ)んとす」、「いまにも ~しようとする/ ~するつもりだ」
(虎はロバが)自分にかみつこうとしているのだと思った。ひどく恐れたのである。
然レドモ往来シテ視レルニ之ヲ、覚レエ無二キヲ異能ナル者一、益習二ヘリ其ノ声一ニ。
然れども往来して之を視るに、異能なる者無きを覚え、益其の声に習へり。
しかし、(ロバの近くを)行ったり来たりしてロバを観察すると、特異な能力は持ってないものに思え、しだいにその鳴き声に慣れた。
又近ヅキ出二ヅレドモ前後一ニ、終ニ不二敢ヘテ搏一タ。
又近づき前後に出づれども、終に敢へて搏たず。
※「不二敢ヘテ ~一(せ)」=「しいて(無理に) ~しようとはしない。/ ~するようなことはしない」
また、近づいて前や後ろに出てみたが、結局(ロバが)攻撃してくるようなことはなかった。
稍ク近ヅキテ益狎レ、蕩倚衝冒ス。
稍く近づきて益狎れ、蕩倚衝冒す。
(虎は)少しずつ近づいてますます慣れ、体をすりつけたりぶつけたりした。
驢不レ勝レヘ怒リニ、蹄レル之ヲ。
驢怒りに勝へず、之を蹄る。
ロバは怒りを我慢できず、虎を蹴った。
虎因リテ喜ビ、計レリテ之ヲ曰ハク、技止レマル此ニ耳ト。
虎因りて喜び、之を計りて曰はく、「技此に止まるのみ。」と。
※「~ 耳」=限定「~ のみ」「~ だけだ」
そこで虎は喜び、ロバの力量をおしはかって、「技はこれだけだな。」と言った。
因リテ跳踉シテ大イニ㘚エ、断二チ其ノ喉一ヲ、尽二クシテ其ノ肉一ヲ、乃チ去ル。
因りて跳踉して大いに噉え、其の喉を断ち、其の肉を尽くして、乃ち去る。
そして跳びかかって大声でほえ、ロバののどを食いちぎり、その肉を食い尽くして、立ち去った。
噫、形之尨ナル也、類二シ有徳一ニ、声之宏ナル也、類二ス有能一ニ。
噫、形の尨なるや、有徳に類し、声の宏なるや、有能に類す。
ああ、姿形の大きなものは、徳があるように見え、声の大きなものは、能力があるように見えるものなのだなあ。
向ニ不レレバ出二ダサ其ノ技一ヲ、虎雖レモ猛ナリト、疑ヒ畏レテ卒ニ不二ラン敢ヘテ取一ラ。
向に其の技を出ださざれば、虎猛なりと雖も、疑ひ畏れて卒に敢へて取らざらん。
※「不二敢ヘテ ~一(せ)」=「しいて(無理に) ~しようとはしない。/ ~するようなことはしない」
あの時に(ロバは)その技を出さなければ、虎が獰猛だといっても、疑いおそれて最終的に襲いかかるようなことはしなかっただろう。
今若レシ是クノ焉。悲シイ夫。
今是くのごとし。悲しいかな。
※焉=置き字(断定・強調)
※「~ 夫」=詠嘆、「~ かな」、「~ だなあ・ことよ」
今このようになってしまった。悲しいことであるよ。