「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら方丈記『養和の飢饉』(1)解説・品詞分解
また養和のころとか、久しくなりて覚えず。
また養和の頃であったか、長い時を経てしまったので覚えていない。
二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。
二年間、世間では飢饉が起こって、驚きあきれるようなひどい事がありました。
※飢饉(ききん)=農作物が十分に実らず、食料不足となること。
あるいは春・夏、日照り、あるいは秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。
ある年は春・夏に干ばつ、ある年は秋に大風・洪水などと、悪いことが続いて、穀物はまったく実らない。
むなしく春かへし、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるそめきはなし。
むなしく春に(田畑を)耕し、夏に(苗を)植える仕事があっても、秋に刈り取り、冬に収納するというにぎわいはない。
これによりて国々の民、あるいは地を捨てて境を出で、あるいは家を忘れて山に住む。
このために国々の民は、ある者は土地を捨てて国境を越え、ある者は家を捨てて山に住んだ。
さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにその験なし。
(朝廷では)さまざまな御祈祷が始まって、並々でない修法などが行われるけれど、まったくその効果はない。
京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは田舎をこそ頼めるに、
京の町の習慣は、何事につけても、全て、(生活の)根本は地方を頼りにしているのに、
絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。
(地方から京へ)全く上がってくるものがないので、(京の人達も)そのようにばかり体裁を保っていられようか。(いや、いられない。)
念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。
がまんできなくなっては、さまざまな財物を片っ端から捨てるかのように(食料と交換しようと)するけれども、まったく目をとめる人もいない。
たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。
たまたま交換する者は、財物を軽んじ、穀物を重んじる。乞食は、道ばたに多く、嘆き悲しむ声がいたるところから聞こえた。
(2)
前の年、かくのごとくからうじて暮れぬ。
前の年は、このようにしてやっとのことで年が暮れた。
明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うち添ひて、まさざまに跡形なし。
翌年は立ち直るだろうかと思っていると、その上に(=飢饉に加えて)疫病までが加わって、いっそうひどくなり、(立ち直る兆しは)跡形もない。
世の人みなけいしぬれば、日を経つつ窮まりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。
世間の人々は皆飢えてしまったので、日が経つにつれて困窮していくありさまは、「少水の魚」のたとえにぴったりである。
はてには笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごと乞ひ歩く。
ついには笠をかぶり、足を包み、よい身なりをしている者が、ひたすら家ごとに物乞いをして歩きまわっている。
かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。
このように困窮してぼけたようになった人々は、歩いているかと見ると、いきなり倒れ伏してしまった。
築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。
土塀のそばや、道端には、飢え死にした者のたぐいが、数えきれない。
取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。
(死体を)取り片づける方法も分からないので、くさいにおいが、辺り一面に充満し、(腐って)変わってゆく顔や(体の)様子は、目も当てられないことが多い。
いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
まして、(鴨川の)河原などには、(死体が散らばっていて)馬や車が行き来する道さえない。
あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。
身分の低い者や、木こりも力尽きて、薪までも乏しくなってゆくので、あてにする方法がない人は、自分の家を壊して、(それを薪として)市場に出て売る。
一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。
一人が持って出た(薪の)値段は、一日の命(をつなぐ食料の代金)にさえ及ばないということだ。
あやしき事は、薪の中に、赤き丹着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、
不思議なことは、薪の中に、赤い丹(=塗料)が付着し、(金箔や銀箔といった)箔などが所々に見える木が、まじっていたのを調べてみると、
すべきかたなき者、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。
どうしようもなくなった者が、古寺に行って仏像を盗み、お堂の仏具を壊し取って、(薪として売るために)割り砕いたのであった。
濁悪世にしも生まれ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
穢れや罪悪に満ちた末法の世に生まれ合わせて、このような情けない行いを見たことでした。
(3)
いとあはれなることも侍りき。
たいそうしみじみと感動することもありました。
去りがたき妻・夫持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。
離れられない妻や夫を持っている者は、(相手を思う)その愛情がまさって深い者が、必ず先に死ぬ。
その故は、わが身は次にして人をいたはしく思ふ間に、まれまれ得たる食ひ物をも、彼に譲るによりてなり。
その理由は、自分の身は二の次にして相手を大切にしたいと思うので、ごくまれに手に入った食べ物も、相手に譲るからである。
されば、親子あるものは、定まれることにて、親ぞ先立ちける。
だから、親子である者は、決まっていることで、親が先に死んだ。
また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつつ、臥せるなどもありけり。
また、母親の命が尽きているのを知らないで、幼い子が、それでも(その死んだ母の)乳を吸いながら、横になっているなどということもあった。
仁和寺に隆暁法院といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、
仁和寺にいた隆暁法院という人は、このようにして数えきれないほど死ぬことを悲しんで、
その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。
その(死体の)首が見えるたびに、額に「阿」という文字を書いて、(成仏させるための)仏縁を結ばせることをなさった。
人数を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、
死んだ人間の数を知ろうとして、四月と五月の二か月の間に数えたところ、
京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。
京の中で、(北の)一条(大路)から南、(南の)九条(大路)から北、(東)京極(大路)からは西、(真ん中の)朱雀(大路)からは東の、道端にある(死体の)頭は、全部で四万二千三百余りあった。
※要するに京の都の東半分。西半分は人口が少なかったのでカウントしなかったのでしょう。
いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へて言はば、際限もあるべからず。
まして、その前後に死んだ者も多く、また、(賀茂)河原・白河・西の京、その他もろもろの辺地などを加えて言うならば、際限もないだろう。
いかにいはんや、七道諸国をや。
ましてや、日本全国を加えるとどうなることか(見当もつかない)。
崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。
崇徳院のご治世の時、長承の頃とか、このような前例があったと聞いているけれど、(直接体験したわけではないので)その当時の様子は分からない。
目のあたりめづらかなりしことなり。
(この養和の飢饉は、)実際に目にしためったにないことであった。