「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら宇治拾遺物語『保昌と袴垂』(1)解説・品詞分解
昔、袴垂とていみじき盗人の大将軍ありけり。
昔、袴垂といって並はずれた盗賊の頭がいた。
十月ばかりに衣の用なりければ、衣少しまうけんとて、
十月頃に、着物が必要であったので、着物を少し手に入れようと思って、
さるべき所々うかがひありきけるに、夜中ばかりに、人みな静まり果ててのち、月の朧なるに、
(盗むのに)適当な所をあちこち探して歩きまわったところ、夜中ごろに、人がみな寝静まりきった後、月がおぼろげに出ている時に、
衣あまた着たりける主の、指貫の稜挟みて、絹の狩衣めきたる着て、
着物をたくさん着ている人が、指貫の稜を(腰の帯に)挟んで、絹の狩衣のようなものを着て、
※指貫(さしぬき)=名詞、貴族の平服
※稜(そば)=名詞、袴の左右両脇の開きの縫止めの部分
ただ一人、笛吹きて、行きもやらず、練り行けば、
たった一人で、笛を吹いて、急いで行くこともなく、ゆっくり歩いて行くので、
「あはれ、これこそ、我に衣得させんとて、出でたる人なめり。」と思ひて、
「ああ、この人こそ、自分に着物を得させようとして、出てきた人であるようだ。」と思って、
走りかかりて衣を剥がんと思ふに、あやしく物のおそろしくおぼえければ、添ひて二、三町ばかり行けども、
走りかかって着物をはぎ取ろうと思うが、不思議になんとなく恐ろしく感じられたので、あとについて二三町ほど行くが、
我に人こそつきたれと思ひたるけしきなし。
自分に人がついてきていると思っている様子もない。
いよいよ笛を吹きて行けば、試みんと思ひて、足を高くして走り寄りたるに、
ますます笛を吹いて行くので、試してみようと思って、足音を高くして走り寄ったところ、
笛を吹きながら見返りたるけしき、取りかかるべくもおぼえざりければ、走り退きぬ。
笛を吹きながら振り返った様子は、襲いかかることができそうにも思えなかったので、走り退いてしまった。
(2)
かやうに、あまたたびとざまかうざまにするに、つゆばかりも騒ぎたるけしきなし。
このように、何度もあれやこれやとするが、少しもあわてる様子がない。
希有の人かなと思ひて、十余町ばかり具して行く。
珍しい人であるなあと(袴垂は)思って、十町あまりほど後をつけて行く。
さりとてあらんやはと思ひて、刀を抜きて走りかかりたる時に、
そうかといってこのままでいられようかと思って、刀を抜いて走りかかった時に、
そのたび笛を吹きやみて、立ち返りて、「こは、何者ぞ。」と問ふに、心も失せて、我にもあらで、ついゐられぬ。
その時は笛を吹くのをやめて、振り返って、「お前は何者だ。」と問うので、(袴垂は)呆然として、正気も失って、膝をついて座ってしまった。
また、「いかなる者ぞ。」と問へば、今は逃ぐともよも逃がさじとおぼえければ、
また、「どういう者だ。」と問うと、今は逃げようともよもや逃がしはするまいと思われたので、
「引剥ぎに候ふ。」と言へば、「何者ぞ。」と問へば、
「追いはぎでございます。」と言うと、「何者だ。」と問うので、
「字、袴垂となん言はれ候ふ。」と答ふれば、
「通称は、袴垂と言われております。」と答えると、
「さいふ者ありと聞くぞ。あやふげに、希有のやつかな。」と言ひて、
「そういう者がいると聞いているぞ。物騒で、とんでもない奴だなあ。」と言って、
「ともにまうで来。」とばかり言ひかけて、また同じやうに笛吹きて行く。
「一緒について参れ。」とだけ声をかけて、また同じように笛を吹いて行く。
この人のけしき、今は逃ぐともよも逃がさじとおぼえければ、
この人の様子は、今は逃げようともよもや逃がしはするまいと思われたので、
鬼に神取られたるやうにて、ともに行くほどに、家に行き着きぬ。
鬼に魂を取られたようになって、一緒に行くうちに、家に行き着いた。
いづこぞと思へば、摂津前司保昌といふ人なりけり。
どこかと思うと、摂津の前の国司であった藤原保昌という人であった。
家のうちに呼び入れて、綿厚き衣一つを給はりて、「衣の用あらん時は、参りて申せ。
家の中に呼び入れて、綿の厚い着物一着をお与えになって、「着物が必要な時は、(ここに)参って申せ。
心も知らざらん人に取りかかりて、汝、あやまちすな。」とありしこそ、あさましく、むくつけく、恐ろしかりしか。
気心も分からないような人に襲いかかって、おまえ、しくじるな。」とあったのは、驚きあきれ、気味が悪く、恐ろしかった。
「いみじかりし人のありさまなり。」と、捕らへられて後、語りける。
「とても立派な人の様子であった。」と、捕らえられた後、(袴垂は)語ったということだ。