「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら枕草子『上にさぶらふ御猫は』解説・品詞分解(3)
暗うなりて、物食はせたれど食はねば、
暗くなって、(その犬に)物を食べさせたけれど食べないので、
あらぬものに言ひなしてやみぬるつとめて、
(翁丸とは)違う犬だということにして終わった翌朝、
御けづり髪、御手水など参りて、御鏡をもたせ給ひて御覧ずれば、候ふに、
(中宮様が)調髪や、御洗面をなさって、(私に)持たせなさってご覧になるので、(私が)お仕えしている時に、
犬の柱のもとに居たるを見やりて、
(昨日のあの)犬が柱のもとに座っているのを見て、
「あはれ、昨日翁丸をいみじう打ちしかな。
(私が、)「ああ、昨日は翁丸をひどく打ったものだなあ。
死にけむこそあはれなれ。
死んだとかいうことだが、かわいそうなことだ。
何の身にこのたびはなりぬらむ。
何の身に今度は生まれ変わっているだろう。
いかにわびしき心地しけむ。」
どんなにつらい気持ちがしただろうか。」
とうち言ふに、この居たる犬の震ひわななきて、涙をただ落としに落とすに、いとあさまし。
とつぶやくと、この座っていた犬がぶるぶると震えて、涙をただひたすら落とすので、たいそう驚いた。
さは翁丸にこそありけれ。
それでは翁丸であったのだな。
よべは隠れ忍びてあるなりけりと、あはれに添へてをかしきことかぎりなし。
昨夜は隠れ忍んでいたのだなあと、かわいそうだと思うのに加えて趣深いことこの上ない。
御鏡うち置きて、「さは翁丸か。」と言ふに、ひれ伏していみじう鳴く。
お鏡を置いて、「それでは翁丸なのか。」と言うと、ひれ伏してひどく鳴く。
御前にもいみじうおち笑はせ給ふ。
中宮様もたいそうお笑いになる。
(4)
右近の内侍召して、「かくなむ。」と仰せらるれば、
(中宮様は)右近の内侍をお呼びになって、「こういうことがあったのだ。」とおっしゃると、
笑ひののしるを、上にも聞こしめして、渡りおはしましたり。
(女房たちが)大笑いするのを、天皇もお聞きになって、(中宮様の部屋に)おいでになった。
「あさましう、犬なども、かかる心あるものなりけり。」と笑はせ給ふ。
(天皇は、)「驚いたことに、犬などにも、このような心があるものなのだなあ。」とお笑いになる。
上の女房なども聞きて参り集まりて、呼ぶにも今ぞ立ち動く。
天皇に仕える女房たちも聞きつけて参り集まって、(「翁丸」と)呼ぶにつけても今は(隠すことなく)立ち動く。
「なほこの顔などの腫れたる、物のてをせさせばや。」と言へば、
(私が、)「やはりこの顔などの腫れていること、手当てをさせてやりたい。」と言うと、
「つひにこれを言ひあらはしつること。」など笑ふに、
(女房たちが、)「とうとう翁丸に対する同情を言い表しましたね。」などと(言って)笑っていると、
忠隆聞きて、台盤所の方より、「まことにや侍らむ。かれ見侍らむ。」と言ひたれば、
源忠隆が聞きつけて、台盤所の方から、「本当でしょうか。(私が)その犬を見てみましょう。」と言ったので、
「あな、ゆゆし。さらに、さるものなし。」と言はすれば、
「まあ、縁起でもない。まったく、そのようなものはいません。」と(人をやって)言わせたところ、
「さりとも見つくる折も侍らむ。
(忠隆は、)「(そんな嘘をついて)いくらなんでも(今後)見つける時もあるでしょう。
さのみもえ隠させ給はじ。」と言ふ。
そうばかりもお隠しになれますまい。」と言う。
さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。
そして、(翁丸は)おとがめも許されて、元のように(宮中で飼われることと)なった。
なほあはれがられて、震ひ鳴き出でたりしこそ、
やはり同情されて、震え鳴き出したのは、
よに知らずをかしくあはれなりしか。
何とも言いようもなく趣深くしみじみと感じられる様子であった。
人などこそ人に言はれて泣きなどはすれ。
人などは人に(同情の言葉などを)言われて泣いたりなどするものだが(、犬もそのようなことをするとは思いもよらないことだったよ)。