「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら紫式部日記『若宮誕生』解説・品詞分解(1)
十月十余日までも、御帳出でさせ給はず。
(中宮彰子様は)十月十四日までも、御帳台(=貴人の寝所)から出なさらない。
西のそばなる御座に、夜も昼も候ふ。
(女房たちは)西側にある御座所に、夜も昼もお仕え申し上げている。
殿の、夜中にも暁にも、参り給ひつつ、御乳母の懐をひき探させ給ふに、
道長殿が、夜中にも明け方にも、参上なさっては、御乳母の懐をお探しにな(若宮を御覧になろうとす)るが、
※殿=中宮彰子の父である藤原道長のこと。
うちとけて寝たる時などは、何心もなくおぼほれておどろくも、いといとほしく見ゆ。
(乳母が)気を緩めて寝ている時などは、何の心の用意もなくぼんやりと目を覚ますのも、たいそう気の毒に思われる。
心もとなき御ほどを、わが心をやりてささげうつくしみ給ふも、ことわりにめでたし。
(若宮は)まだ何もお分かりでないご様子なのを、(道長殿は)ご自分だけがいい気になって抱き上げてかわいがりなさるのも、当然でありすばらしい
あるときは、わりなきわざしかけ奉り給へるを、
ある時には、(若宮が道長殿に)とんでもないことをしかけ申し上げなさったのを、
御紐ひき解きて、御几帳の後にてあぶらせ給ふ。
(道長殿は)お紐をひき解いて(直衣を脱ぎ)、御几帳の後ろであぶってお乾かしになる。
「あはれ、この宮の御尿に濡るるは、うれしきわざかな。
(殿は)「ああ、この若宮の御尿に濡れるのは、うれしいことだなあ。
この濡れたる、あぶるこそ、思ふやうなる心地すれ。」と、喜ばせ給ふ。
この濡れたのを、あぶるのは、(自分の)望みどおりになった心地がすることだ。」とお喜びになる。
(2)
中務の宮わたりの御ことを、御心に入れて、そなたの心寄せ有る人とおぼして、
中務の宮に関することに、(道長殿は)ご熱心で、(私のことを)そちらに心を寄せているものとお思いになって、
語らはせ給ふも、まことに心の中には思ひ居たること多かり。
(私に)お話になるのにつけても、本当に(私の)心の中には思案していることが多くある。
行幸近くなりぬとて、殿の内を、いよいよつくりみがかせ給ふ。
(一条天皇の)行幸が近くなったということで、屋敷の中を、いっそう手入れをして立派になさる。
よにおもしろき菊の根を、尋ねつつ掘りて参る。
(人々は)実にすばらしい菊の根を、探し求めては掘って持って参上してくる。
色々うつろひたるも、黄なるが見所あるも、様々に植ゑたてたるも、朝霧の絶え間に見わたしたるは、
色とりどりに色変わりした菊も、黄色で見所のある菊も、さまざまに植えこんである菊も、朝霧の絶え間に見渡した景色は、
げに老いもしぞきぬべき心地するに、なぞや。
実に老いも退きそうな気持ちがするのに、なぜだろうか。(私のように物思いをすることが多い身には素直に喜べない。)
まして、思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、
まして、(私が)物思いをすることが少しでも普通の身であったら、
すきずきしくももてなし若やぎて、常なき世をも過ぐしてまし。
(いっそのこと)風流にもふるまい、若々しくなって、無常なこの世をも過ごしただろうに。
めでたきこと、おもしろき事を見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心のひく方のみ強くて、
すばらしいことや、面白いことを見聞きするにつけても、ただ思いつめた心に引きつける方ばかりが強くて、
もの憂く、思はずに、嘆かしき事のまさるぞ、いと苦しき。
なんとなく憂鬱で、思いがけず、嘆かわしいことが多くなるのは、とてもつらい。
いかで、今はなほ、もの忘れしなむ、思ひがひもなし、罪も深かりなど、
どうにかして、今はやはり、何もかも忘れてしまおう、思っても意味のないことだ、(こんなことでは)罪も深いことであるなどと、
明けたてば、うちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊び合へるを見る。
夜が明けると、ぼんやりと外を眺めて、水鳥たちが物思いすることもなさそうに遊び合っているのを見る。
水鳥を 水の上とや よそに見む 我も浮きたる 世を過ぐしつつ
水鳥を水の上(で物思いもせずに遊んでいる)と自分とは関係のないよそごとだと見ようか。(いや、そのように見はしない)。私も(水鳥と同じように)水に浮いたような不安で落ち着かない日々を送っているのだよ。
かれも、さこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、
あの水鳥も、あのように思うまま自由に遊んでいると見えるけれど、
身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。
その身はたいそう苦しいのだろうと、(自分自身と)思い比べずにはいられない。