青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
まとめはこちら『人虎伝』まとめ
虎曰ハク、「我ガ前身客二タリ呉楚一ニ。
虎曰はく、「我が前身呉楚に客たり。
虎が言うことには、「私は以前呉や楚で旅をしている者であった。
去歳方ニ還ラントシテ、道ニ次二リ汝墳一ニ、忽チ嬰レリテ疾ニ発狂ス。
去歳方に還らんとして、道に汝墳に次り、忽ち疾に嬰りて発狂す。
去年家に帰ろうとして、道中で汝墳に宿泊したところ、突然病気になって発狂した。
夜聞下キ戸外ニ有中ルヲ呼二ブ吾ガ名一ヲ者上、遂ニ応レジテ声ニ而出デ、走二ル山谷ノ間一ヲ。
夜戸外に吾が名を呼ぶ者有るを聞き、遂に声に応じて出で、山谷の間を走る。
※而=置き字(順接・逆接)
夜に外で私の名前を呼ぶ者があるのを聞いて、そのままその声に応じて外に出て、山や谷の間を走り回った。
不レ覚エ、以二ツテ左右ノ手一ヲ攫レミテ地ヲ而歩ム。自レリ是レ覚二ユ心愈狠、力愈倍一セルヲ。
覚えず、左右の手を以つて地を攫みて歩む。是れより心愈狠、力愈倍せるを覚ゆ。
訳も分からず、左右の手で地面をつかんで歩いていた。この時から心はますます残忍になり、力もますます強くなるのを感じた。
及レビテハ視二ルニ其ノ肱髀一ヲ、則チ有二リ毛ノ生一ゼル焉。心ニ甚ダ異レシム之ヲ。
其の肱髀を視るに及びては、則ち毛の生ぜる有り。心に甚だ之を異しむ。
※焉=置き字(断定・強調)
自分のひじやももを見ると、毛が生えていた。心の中で非常に不思議に思った。
既ニシテ而臨レミテ溪ニ照レラセバ影ヲ、已ニ成レレリ虎ト矣。悲慟スルコト良久シ。
既にして溪に臨みて影を照らせば、已に虎と成れり。悲慟すること良久し。
※矣=置き字(断定・強調)
谷川に面したところまで来て自分の姿を照らすと、すでに虎となっていた。しばらくの間、悲しんで声をあげて泣いた。
然レドモ尚ホ不レル忍下ビ攫二ミテ生物一ヲ食上ラフニ也。
然れども尚ほ生物を攫みて食らふるに忍びざるなり。
しかし、やはり生き物を捕まえて食べるのは、(まだ人として)耐えられないことだった。
既ニ久シクシテ飢ヱテ不レ可レカラ忍レブ、遂ニ取二リテ山中ノ鹿豕獐兎一ヲ充レツ食ニ。
既に久しくして飢ゑて忍ぶべからず、遂に山中の鹿豕獐兎を取りて食に充つ。
しばらくして腹が減って我慢できなくなり、そのまま山の中にいるシカやイノシシ、ノロジカ、ウサギなどの野獣を捕まえて食べた。
又久シクシテ諸獣皆遠ク避ケ、無レク所レ得ル飢ヱ益甚ダシ。
又久しくして諸獣皆遠く避け、得る所無く飢ゑ益甚だし。
またしばらくすると、獣たちは皆私を遠ざけるようになり、捕まえられる獣がいなくなり、飢えはますますひどくなった。
一日有二リ婦人一、従二リ山下一過グ。
一日婦人有り、山下より過ぐ。
ある日夫人が、山のふもとを通りかかった。
時ニ正ニ餒ヱ迫リ、徘徊スルコト数四、不レ能二ハ自ラ禁一ズルコト、遂ニ取リテ而食ラフ。殊ニ覚二ユ甘美一ナルヲ。
時に正に餒ゑ迫り、徘徊すること数四、自ら禁ずること能はず、遂に取りて食らふ。殊に甘美なるを覚ゆ。
※「不レ能二ハA一(スル)(コト)」=不可能、「 ~(する)(こと)能はず」「(能力がなくて) ~Aできない」
その時ちょうど飢えが限界まで来て、しばしば歩き回って(我慢しようとしたが)、自分を抑えることができず、そのまま捕まえて食べてしまった。特別おいしく感じた。
今其ノ首飾、猶ホ在二ル巖石之下一ニ也。
今其の首飾、猶ほ巖石の下に在るなり。
今でもその夫人の髪飾りは、岩の下にある。
自レリ是レ見二レバ冕シテ而乗ル者、徒シテ而行ク者、負ヒテ而趨ル者、翼アリテ而翔ケル者、毛アリテ而馳スル者一ヲ、力之所レ及ブ、悉ク擒リテ而阻レミ之ヲ、立チドコロニ尽クスヲ率ネ以ツテ為レス常ト。
是れより冕して乗る者、徒して行く者、負ひて趨る者、翼ありて翔ける者、毛ありて馳する者を見れば、力の及ぶ所、悉く擒りて之を阻み、立ちどころに尽くすを、率ね以つて常と為す。
これ以来、冠をつけて乗り物で行く者(=貴人)、歩いて行く者(=旅人)、荷物を背負って走って行く者(=行商人)、翼があって空を飛ぶもの、毛があって地面を駆けるもの、力の及ぶ限り、すべて捕まえて動きを封じて、すぐに食べ尽くしてしまうのが、ほぼいつものことになっている。
非レズ不下ルニ念二ヒ妻孥一ヲ、思中ハ朋友上ヲ。
妻孥を念ひ、朋友を思はざるに非ず。
妻子や友人のことを思わないわけではない。
直ダ以三ツテ行ヒ負二ケルヲ神祇一ニ、一旦化シテ為二リ異獣一ト、有レリ靦二ヅル於人一ニ。
直だ行ひ神祇に負けるを以つて、一旦化して異獣と為り、人に靦づる有り。
※於=置き字(対象・目的)
ただ(自分の)行いが天地の神にそむいたことで、一旦異獣となってしまったからには、人に対して恥ずかしいばかりだ。
故ニ分トシテ不レ見エ矣ト。」因リテ呼吟咨嗟シ、殆ド不二シテ自ラ勝一ヘ遂ニ泣ク。
故に分として見えず。」と。因りて呼吟咨嗟し殆ど自ら勝へずして、遂に泣く。
だから獣の分際として会うことはできない。」と。そこで、叫び声をあげ、ため息をついて嘆き、我慢できなくなって、そのまま泣いた。
続きはこちら『人虎伝』(3.5)原文・書き下し文・現代語訳