青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
巫医・楽師・百工之人ハ、不レ恥二ヂ相師一トスルヲ。
巫医・楽師・百工の人は、相師とするを恥ぢず。
巫女と医者・音楽家・その他多くの職人たちは、お互いを師とすることを恥じとしない。
士大夫之族、曰ハク師、曰ハク弟子ト云フ者ヲバ、則チ群聚シテ而笑レフ之ヲ。
士大夫の族は、曰はく師、曰はく弟子と云ふ者をば、則ち群聚して之を笑ふ。
官位のある者たちは、師と言ったり、弟子だと言ったりする者のことを、寄ってたかって笑う。
問レヘバ之ニ則チ曰ハク、「彼ト与レハ彼年相若ケリ也、道相似タリ也。」
之を問へば則ち曰はく、「彼と彼とは年相若けり、道相似たり。」と。
その理由を尋ねると、そこで(官位のある者たちが)言うことには、「彼と彼とは年がお互いに同じぐらいで、身につけた学問や技術も同じぐらいだ。」
位卑ケレバ則チ足レリ羞ヅルニ、官盛ンナレバ則チ近レシトス諛フニ。
位卑ければ則ち羞づるに足り、官盛んなれば則ち諛ふに近しとす。
(師の)身分が低ければ、恥ずかしいことだと思い、(師の)官位が高ければ、媚びへつらっているようだと思う。
嗚呼、師道之不レルコト復セ、可レシ知ル矣。
嗚呼、師道の復せざること、知るべし。
ああ、師道(=昔のような師のあり方)が復活しないことが、よく分かる。
巫医・楽師・百工之人ハ、君子不レ歯セ。
巫医・楽師・百工の人は、君子歯せず。
巫女と医者・音楽家・その他多くの職人たちのことを、君子の人たちは同列と見なしていない。
※君子=士大夫之族(=官位のある者たち)のことを指しており、皮肉を込めて表現している。
今其ノ智ハ、乃チ反ツテ不レ能レハ及ブ。可レキ怪シム也歟。
今其の智は、乃ち反って及ぶ能ばず。怪しむべきかな。
※「不レ能二ハA一(スル)(コト)」=不可能、「 ~(する)(こと)能はず」「(能力がなくて) ~Aできない」
※也歟(かな)=詠嘆
(ところが、)今、その君子たちの賢さは、かえって(巫医・楽師・百工之人たちに)及ぶことができない。不思議なことであるよ。
聖人ハ無二シ常ノ師一。孔子ハ師二トス郯子・萇弘・師襄・老耼一ヲ。
聖人は常の師無し。孔子は郯子・萇弘・師襄・老耼を師とす。
聖人には決まった師はいない。孔子は郯子・萇弘・師襄・老耼を師とした。
郯子之徒ハ、其ノ賢不レ及二バ孔子一ニ。
郯子の徒は、其の賢孔子に及ばず。
(しかし、)郯子たちは、その賢明さということでは孔子に及ばない。
孔子曰ハク、「三人行ヘバ、則チ必ズ有二リト我ガ師一。」
孔子曰はく、「三人行へば、則ち必ず我が師有り。」と。
孔子が言うことには、「三人が何か行動すれば、(その三人の中に)必ず自分の師とすべき人がいる。」と。
是ノ故ニ弟子ハ不二必ズシモ不一レンバアラ如レカ師ニ。
是の故に弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
こういうわけで、弟子は必ずしも師に及ばないというわけではない。
師ハ不三必ズシモ賢二ナラ於弟子一ヨリ。
師は必ずしも弟子より賢ならず。
※「不二必ズシモ ~一(セ)」=部分否定、「必ずしも ~(せ)ず」、「必ずしも ~(する)とは限らない。」
(また、)師は必ずしも弟子より賢明なわけではない。
聞レクニ道ヲ有二リ先後一、術業ニ有二リ専攻一、如レキ是クノ而已。
道を聞くに先後有り、術業に専攻有り、是くのごときのみ。
※「~ 而已」=限定「~ のみ」「~ だけだ」
(人それぞれ、)道について聞き知っているのには早い遅いがあり、(また、)技能と技術に専門としているものがある。ただそれだけのことである。
李氏ノ子蟠、年十七。好二ミ古文一ヲ、六芸ノ経伝、皆通-二習セリ之一ニ。
李氏の子蟠、年十七。古文を好み、六芸の経伝、皆之に通習せり。
李氏の子である蟠は、十七歳である。秦・漢以前の古文を好み、六芸の本文とその注釈を、すべて学んで精通していた。
※六芸=易経・書経・詩経・礼記・楽経・春秋の儒学における六つの経典
※経=六経の本文 伝=六経の注釈
不レ拘二ラ於時一ニ、学二ブ於余一ニ。
時に拘はらず、余に学ぶ。
この当時の風潮にとらわれず、私を師として学んだ。
余嘉三シ其ノ能ク行二フヲ古道一ヲ、作二リテ師ノ説一ヲ以ツテ貽レル之ニ。
余其の能く古道を行ふを嘉し、師の説を作りて、以つて之に貽る。
※能ク= ~できる
私は蟠が古道(=古代の子弟の関係)を実行できるのを褒め、この「師の説」を作って、これを彼に贈ることにする。