青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
ひとつ前はこちら『風蕭蕭として易水寒し』原文・書き下し文・現代語訳
遂ニ至レリ秦ニ、持二チテ千金之資幣物一ヲ、厚ク遺二ル秦王ノ寵臣中庶子ノ蒙嘉一ニ。
遂に秦に至り、千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子の蒙嘉に遺る。
こうして(荊軻たちは)秦に到着し、高価な贈り物(=賄賂)を持って、秦王の家臣で中庶子の蒙嘉に手厚く送った。
嘉為ニ先ヅ言二ヒテ於秦王一ニ曰ハク、「燕王誠ニ振-二怖シ大王之威一ニ、不三敢ヘテ挙レゲテ兵ヲ以ツテ逆二ラハ軍吏一ニ。
嘉為に先づ秦王に言ひて曰はく、「燕王誠に大王の威に振怖し、敢へて兵を挙げて以つて軍吏に逆らはず。
※「不二敢ヘテ ~一(せ)」=しいて(無理に) ~しようとはしない。 ~するようなことはしない
(荊軻らから賄賂を受け取った)蒙嘉が秦王に言ったことには、「燕王は、実に大王様の威厳に恐れおののき、兵を挙げて(秦の)軍に逆らうようなことはないでしょう。
願ハクハ挙レゲテ国ヲ為二リ内臣一ト、比二シ諸侯之列一ニ、給二スルコト貢職一ヲ如二クニシテ郡県一ノ、而得三ント奉-二守スルヲ先王之宗廟一ヲ。
願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県のごとくにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。
燕の国を挙げて(秦の)臣下となり、諸侯の列に並び、秦の直轄の郡県のように貢ぎ物を捧げ、先王の宗廟(=墓)を守ることを願っています。
恐懼シテ不二敢ヘテ自ラ陳一ベ、謹ンデ斬二リ樊於期之頭一ヲ、及ビ献二ジ燕ノ督亢之地図一ヲ、函封シテ、燕王拝-二送シ于庭一ニ、
恐懼して敢へて自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封して、燕王庭に拝送し、
※于=置き字(場所)
恐れ入って燕王自らが申すことはありませんが、謹んで樊於期の首を斬り、燕の督亢の地図を献上し、箱に密封して、宮廷に使者を派遣し、
※樊於期=秦から燕へ亡命した裏切り者だと考えられている。
使三ム使ヒヲシテ以-二聞セ大王一ニ。唯ダ大王命レゼヨト之ニ。」
使ひをして大王に以聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ。」と。
※使=使役「使二ムAヲシテB一(セ)」→「AをしてB(せ)しむ」→「AにBさせる」
使者に大王様へ申し上げさせようとしています。どうか大王様、(使者を迎えるよう)お命じください。」と。
秦王聞レキテ之ヲ大イニ喜ビ、乃チ朝服シテ設二ケ九賓一ヲ、見二ル燕ノ使者ヲ咸陽宮一ニ。
秦王之を聞きて大いに喜び、乃ち朝服して九賓を設け、燕の使者を咸陽宮に見る。
秦王はこれを聞いて大いに喜び、そこで正装して九賓の礼(=最高の接待儀礼)を設け、燕の使者と咸陽宮で会見した。
荊軻奉二ジ樊於期ノ頭ノ函一ヲ、而シテ秦舞陽奉二ズ地図ノ匣一ヲ。
荊軻樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の匣を奉ず。
荊軻は樊於期の首が入った箱をささげ持ち、そして秦舞陽は地図が入った箱をささげ持った。
以レツテ次ヲ進ミ、至レル陛ニ。秦舞陽ヲ色変ジ振恐ス。
次を以つて進み、陛に至る。秦舞陽色を変じ振恐す。
(正使・副使の)順序に従って進み、玉座の前の階段の所まで来た。秦舞陽は顔色を変えて震え上がって恐れた。
群臣怪レシム之ヲ。荊軻顧ミテ笑二ヒ舞陽一ヲ、前ミテ謝シテ曰ハク、
群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰はく、
家臣たちはこれを見て怪しんだ。荊軻は振り返って秦舞陽を笑い、進み出て詫びて言うことには、
「北蕃蛮夷之鄙人、未三ダ嘗テ見エ天子一ニ。故ニ振褶ス。
「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振褶す。
※「未ニダ ~ 一(セ)」=再読文字、「未だ ~(せ)ず」、「まだ ~(し)ない」
「北方未開の地の田舎者でして、今まで天子にお会いしたことがありません。それゆえに震え上がっております。
願ハクハ大王少シク仮-二借シ之一ヲ、使レメヨト得レ畢二フルヲ使ヒヲ於前一ニ。」
願はくは大王少しく之を仮借し、使ひを前に畢ふるを得しめよ。」と。
※「願ハクハ ~(セヨ)」=願望、「どうか ~させてください/どうか ~してください」 ※使=使役、「~させる」
どうか大王様、少しばかりこれを大目に見て、使者の役目を王の御前で果たさせてください。」と。
秦王謂レヒテ軻ニ曰ハク、「取二レト舞陽ノ所レノ持ツ地図一ヲ。」
秦王軻に謂ひて曰はく、「舞陽の持つ所の地図を取れ。」と。
秦王が荊軻に向かって言うことには、「舞陽が持っている地図を取れ。」と。
軻既ニ取レリテ図ヲ奏レス之ヲ。秦王発レク図ヲ。図窮マリテ而匕首見ハル。
軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見はる。
荊軻は地図を取ってこれを献上した。秦王は地図を開いた。地図が開き終わると短剣が出てきた。
因リテ左手モテ把二リ秦王ノ袖一ヲ、而シテ右手モテ持二チ匕首一ヲ揕レス之ヲ。
因りて左手もて秦王の袖を把り、而して右手もて匕首を持ち之を揕す。
そこで左手で秦王の袖をつかみ、そして右手で短剣を持って秦王を刺した。
未レダ至レラ身ニ。秦王驚キ、自ラ引キテ而起ツ。袖絶ツ。抜レカントス剣ヲ。
未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶つ。剣を抜かんとす。
※「未ニダ ~ 一(セ)」=再読文字、「未だ ~(せ)ず」、「まだ ~(し)ない」
秦王の体にまでは到達しなかった。秦王は驚き、自分から身を引いて立ち上がった。袖がちぎれた。(秦王は)剣を抜こうとした。
剣長シ。操二ル其ノ室一ヲ。時ニ惶急シ、剣堅シ。故ニ不レ可二カラ立チドコロニ抜一ク。
剣長し。其の室を操る。時に惶急し、剣堅し。故に立ちどころに抜くべからず。
※「不レ可二カラ ~一(ス)」=不可能、「 ~(す)べからず」、「(状況から見て) ~できない。/ ~してはならない。(禁止)」
剣は長かった。その鞘を握った。慌てふためいており、剣が堅かった。なので、すぐには抜けなかった。
荊軻逐二フ秦王一ヲ。秦王環レリテ柱ヲ而走グ。
荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走ぐ。
※而=置き字(順接・逆接)
荊軻は秦王を追いかけた。秦王は柱を巡って逃げた。
群臣皆愕ク。卒カニ起レコレバ不レルコト意ハ、尽ク失二フ其ノ度一ヲ。
群臣皆愕く。卒かに意はざること起これば、尽く其の度を失ふ。
群臣は皆驚いた。突然思いがけないことが起こったので、皆冷静な判断が出来なくなった。
而モ秦ノ法、群臣ノ侍二スル殿上一ニ者ハ、不レ得レ持二スルヲ尺寸之兵一ヲモ。
而も秦の法、群臣の殿上に侍する者は、尺寸の兵をも持するを得ず。
※「不レ得二 ~一(スル)ヲ」=不可能、「 ~(する)を得ず」、「(機会がなくて) ~できない。」
しかも秦の法では、殿上に仕える家臣は、短い武器さえ持つことが許されていなかった。
諸郎中執レルモ兵ヲ、皆陳二ナリ殿下一ニ、非レザレバ有二ルニ詔召一、不レ得レ上ルヲ。
諸郎中兵を執るも、皆殿下に陳なり、詔召有るに非ざれば、上るを得ず。
護衛たちは武器を持っていたが、皆殿下で並んでおり、詔で召し寄せるのでなければ、(護衛の兵が)上がることは出来なかった。
方二タリテ急時一ニ、不レ及レバ召二スニ下ノ兵一ヲ。以レツテ故ヲ、荊軻乃チ逐二フ秦王一ヲ。
急時に方たりて下の兵を召すに及ばず。故を以つて、荊軻乃ち秦王を逐ふ。
急なことだったので、殿下の兵を呼ぶことが出来なかった。そういうわけで、荊軻は秦王を追いかけた。
而モ卒カニ惶急シ、無二クシテ以ツテ撃一レツコト軻ヲ、而以レツテ手ヲ共ニ搏レツ之ヲ。
而も卒かに惶急し、以つて軻を撃つこと無くして、手を以つて共に之を搏つ。
(秦王は)突然のことで慌てふためき、荊軻を討つ手段もなくて、素手で一緒になって叩いた。
是ノ時、侍医夏無且、以二ツテ其ノ所レノ奉ズル薬嚢一ヲ提二ツ荊軻一ニ也。
是の時、侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以つて荊軻に提つなり。
このとき、侍医の夏無且は、ささげ持っていた薬の袋を荊軻に投げつけた。
秦王方ニ環レリテ柱ヲ走グ。卒カニ惶急シテ、不レ知レラ所レヲ為ス。
秦王方に柱を環りて走ぐ。卒かに惶急して、為す所を知らず。
秦王はちょうど柱の周りを逃げていた。突然のことで慌てふためいて、どうすればよいか分からなかった。
左右乃チ曰ハク、「王負レヘト剣ヲ。」
左右乃ち曰はく、「王剣を負へ。」と。
そこで側近たちが、「王様、剣を背負われよ。」と言った。
負レヒ剣ヲ、遂ニ抜キテ以ツテ撃二チ荊軻一ヲ、断二ツ其ノ左股一ヲ。
剣を負ひ、遂に抜きて以つて荊軻を撃ち、其の左股を断つ。
(秦王は)剣を背負い、とうとう剣を抜いて、荊軻を斬りつけ、左の太ももを断ち切った。
荊軻廃ル。乃チ引二キテ其ノ匕首一ヲ、以ツテ擿二ツモ秦王一ニ、不レ中タラ。
荊軻廃る。乃ち其の匕首を引きて、以つて秦王に擿つも、中たらず。
荊軻は足の自由がきかなくなった。そこで(荊軻は)短剣を引いて秦王に投げつけたが、当たらなかった。
中二ツ銅柱一ニ。秦王復タ撃レツ軻ヲ。軻被二ル八創一ヲ。
銅柱に中つ。秦王復た軻を撃つ。軻八創を被る。
銅の柱に当たった。秦王は再び荊軻を斬りつけた。荊軻は八か所に傷を負った。
軻自ラ知二リ事ノ不一レルヲ就ラ、倚レリテ柱ニ而笑ヒ、箕踞シテ以ツテ罵リテ曰ハク、
軻自ら事の就らざるを知り、柱に倚りて笑ひ、箕踞して以つて罵りて曰はく、
荊軻は事が成就しなかったことを悟り、柱に寄りかかって笑い、両足を前に投げ出して座って罵って言うことには、
「事ノ所-二以ノ不一レリシ成ラ者ハ、以レツテ欲下セシヲ生キナガラニシテ劫レカシ之ヲ、必ズ得二テ約契一ヲ、以ツテ報中ゼント太子上ニ也ト。」
「事の成らざりし所以の者は、生きながらにして之を劫かし、必ず約契を得て、以つて太子に報ぜんと欲せしを以つてなり。」と。
「事(=暗殺)が成功しなかった理由は、秦王を生かしたまま脅し、必ず(秦が侵略した土地を返還するという)約束をして、太子に報告しようと思ったからである。」と。
於レイテ是ニ、左右既ニ前ミテ殺レス軻ヲ。秦王不レル怡バ者良久シ。
是に於いて、左右既に前みて軻を殺す。秦王怡ばざること良久し。
こうして、側近たちはすぐに進み出て荊軻を殺した。秦王はしばらくの間不機嫌であった。