青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
於レイテ是ニ太子予メ求二メ天下之利キ匕首一ヲ、得二趙人徐夫人ノ匕首一ヲ、取二ル之ヲ百金一ニ。
是に於いて太子予め天下の利き匕首を求め、趙人徐夫人の匕首を得、之を百金に取る。
※於レイテ是ニ=そこで、こうして
こうして太子は前もって天下一の鋭利な短剣を求め、趙の徐夫人が作った短剣を見つけ、それを百金で買い取った。
使二ム工ヲシテ以レツテ薬ヲ焠一レメ之ヲ。以ツテ試レミルニ人ニ血濡レラシ縷ヲ、人無下シ不二ル立チドコロニ死一セ者上。
工をして薬を以つて之を焠めしむ。以つて人に試みるに血縷を濡らし、人立ちどころに死せざる者無し。
※使=使役「使二ムAヲシテB一(セ)」→「AをしてB(せ)しむ」→「AにBさせる」
刀工に毒薬を短剣に染みこませた。人に試してみるとわずかに糸筋ほどの血がにじみ、すぐに死なない者はなかった。
乃チ装シテ為ニ遣二ハサントス荊卿一ヲ。
乃ち装して為に荊卿を遣はさんとす。
そこで準備を整えて、荊軻を送り出そうとした。
燕国ニ有二リ勇士秦舞陽一。年十三ニシテ殺レシ人ヲ、人不二敢ヘテ忤視一セ。
燕国に勇士秦舞陽有り。年十三にして人を殺し、人敢へて忤視せず。
※「不二敢ヘテ ~一(せ)」=しいて(無理に) ~しようとはしない。 ~するようなことはしない
燕の国に秦舞陽という勇士がいた。十三歳という年齢で人を殺し、誰も彼の眼を正視しようとはしなかった。
乃チ令二ム秦舞陽ヲシテ為一レサ副ト。荊軻有レリ所レ待ツ、欲二ス与ニ俱一ニセント。
乃ち秦舞陽をして副と為さしむ。荊軻待つ所有り、与に俱にせんと欲す。
※令=使役「令二ムAヲシテB一(セ)」→「AをしてB(せ)しむ」→「AにBさせる」
そこで(太子は)秦舞陽を副使として付きそはせた。荊軻には待っている人がいて、(その人と秦へ)ともに同行したいと思っていた。
其ノ人居レリテ遠キニ未レダ来タラ。而レドモ為ニス治行一ヲ。
其の人遠きに居りて未だ来たらず。而れども治行を為す。
※「未ニダ ~ 一(セ)」=再読文字、「未だ ~(せ)ず」、「まだ ~(し)ない」
その人は遠くにいて、まだ来ていなかった。しかし、(秦への)旅の準備は整ってしまっていた。
頃之シテ未レダ発セ。太子遅レシトシ之ヲ、疑二フ其ノ改悔一スルヲ。
頃之して未だ発せず。太子之を遅しとし、其の改悔するを疑ふ。
しばらくしても出発しなかった。太子はこれを遅いと思い、荊軻は気が変わって後悔してのではないかと疑った。
乃チ復タ請ヒテ曰ハク、「日已ニ尽ク矣。荊卿豈ニ有レラン意哉。
乃ち復た請ひて曰はく、「日已に尽く。荊卿豈に意有らんや。
※「豈ニ ~ (セ)ンや(哉・乎・邪)」=疑問・反語、「豈に ~ (せ)んや」、「どうして ~ だろうか。(いや、~ない。)」。ここでは『疑問』の意味。
そこで再びお願いして言うことには、「日数はすでに尽きました。荊卿には何か考えがおありなのでしょうか。
丹請フ、得三ント先ヅ遣二ハスヲ秦舞陽一ヲ。」
丹請ふ、先づ秦舞陽を遣はすを得ん。」と。
※「請フ ~」=願望、「どうか ~ させてください、どうか ~ してください」
私(=丹)としては、先に秦舞陽を派遣させたいと思います。」と。
荊軻怒リテ叱二シテ太子一ヲ曰ハク、「何ゾ太子之遣ハスヤ。
荊軻怒りて太子を叱して曰はく、「何ぞ太子の遣はすや。
荊軻は怒って太子を叱って言うことには、「どうして太子はそのような遣わし方をなさるのですか。
往キテ而不レル返ラ者ハ豎子也。
往きて返らざる者は豎子なり。
行ったきりで返ってこないのは、未熟者でしょう。
※「豎子」は未熟者ということだが、荊軻自身のことを指す説や秦舞陽のことを指す説もある。
且ツ提二ゲテ一匕首一ヲ、入二ル不測之彊秦一ニ。
且つ一匕首を提げて不測の彊秦に入る。
その上、短刀一本を持って何が起こるか予測できないような強国の秦に入るのです。
僕ノ所-二以ノ留一マル者ハ、待二チテ吾ガ客一ヲ与ニ俱ニセントスレバナリ。
僕の留まる所以の者は、吾が客を待ちて与に俱にせんとすればなり。
私が留まっている理由は、私の友人を待って、ともに同行しよう思っているからなのです。
今太子遅レシトス之ヲ。請フ辞決セント矣。」遂ニ発ス。
今太子之を遅しとす。請ふ辞決せん。」と。遂に発す。
※「請フ ~」=願望、「どうか ~ させてください、どうか ~ してください」
(しかし)今、太子はそれを遅いとお思いです。どうか別れを告げさせていただきたい。」と。こうして出発した。
太子及ビ賓客ノ知二ル其ノ事一ヲ者、皆白衣冠シテ以ツテ送レル之ヲ。
太子及び賓客の其の事を知る者、皆白衣冠して以つて之を送る。
太子と賓客のなかでその事情を知る者は、皆白い喪服を着て荊軻を見送った。
至二ル易水之上一ニ。既ニ祖シテ取レル道ヲ。
易水の上に至る。既に祖して道を取る。
易水のほとりまでやって来た。道祖神を祭り送別の宴を開いて旅路についた。
高漸離撃レチ筑ヲ、荊軻和シテ而歌ヒ、為二ス変徴之声一ヲ。
高漸離筑を撃ち、荊軻和して歌ひ、変徴の声を為す。
※而=置き字(順接・逆接)
(荊軻の友人の)高漸離は筑を打ち鳴らし、荊軻はそれに合わせて歌い、悲壮な調べをかなでていた。
士皆垂レレテ涙ヲ涕泣ス。又前ミテ而為レリテ歌ヲ曰ハク、
士皆涙を垂れて涕泣す。又前みて歌を為りて曰はく、
※而=置き字(順接・逆接)
男たちは皆涙を流して泣いた。さらに進み出て歌をつくって歌うことには、
「風蕭蕭トシテ兮易水寒シ 壮士一タビ去リテ兮不二ト復タ還一ラ。」
「風蕭蕭として易水寒し 壮士一たび去りて復た還らず」と。
※兮=置き字(語調を整える・感嘆・強調)
※「不二復タ ~一(セ)」=「復た~(せ)ず」、「決して~しない/二度とは~しない」
「風はもの寂しく吹いて易水の水は寒々と流れている 壮士がひとたび去ると二度とは帰らない」と。
復タ為二シテ羽声一ヲ忼慨ス。士皆瞋レラシ目ヲ、髪尽ク上ガリテ指レス冠ヲ。
復た羽声を為して忼慨す。士皆目を瞋らし、髪尽く上がりて冠を指す。
再び激高した調べで歌うと、気持ちは高まった。男たちは皆目を見開き、髪はすべて逆立って冠をつき上げるほどだった。
於レイテ是ニ荊軻就レキテ車ニ而去ル。終ニ已ニ不レ顧ミ。
是に於いて荊軻車に就きて去る。終に已に顧みず。
そこで荊軻は車に乗って去った。最後まで振り返ることはなかった。
続きはこちら『図窮まりて匕首見はる』原文・書き下し文・現代語訳