「青=現代語訳」
解説・品詞分解のみはこちら伊勢物語『狩りの使ひ』解説・品詞分解(1)
昔、男ありけり。その男、伊勢の国に狩りの使ひに行きけるに、
昔、男がいた。その男が、伊勢の国に鷹狩りの使いとして行った時に、
かの伊勢の斎宮なりける人の親、「常の使ひよりは、この人よくいたはれ。」と言ひやれりければ、
あの伊勢の斎宮であった人の親が、「いつもの使いの者よりは、この人は特を大切にしなさい。」と言ってやったので、
※斎宮(さいぐう)=天皇の代ごとに選ばれ、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女(みこ)。当然、天皇の代が変わればその任を解かれることになる。
親の言なりければ、いとねむごろにいたはりけり。
親の言うことであったから、(斎宮はその男を)たいそう親切にもてなした。
朝には狩りに出だし立ててやり、夕さりは帰りつつ、そこに来させけり。
朝には狩りに送り出してやり、夕方には帰ってくると、そこ(=斎宮の御殿)に来させた。
かくて、ねむごろにいたつきけり。
こうして、親切に世話をした。
二日といふ夜、男、われて「逢はむ。」と言ふ。女もはた、いと逢はじとも思へらず。
二日目の夜、男は、無理に、「逢いたい。」と言う。女もまた、それほど逢いたくないとも思っていない。
されど、人目しげければ、え逢はず。
けれど、人目が多いので、逢うことができない。
使ひざねとある人なれば、遠くも宿さず。
(男は)正使として来ている人であるので、遠く離れた部屋にも泊めない。
女の閨近くありければ、女、人を静めて、子一つばかりに、男のもとに来たりけり。
(男の部屋は)女の寝室の近くにあったので、女は、人が寝静まるのを待って、子一つの頃に、男のもとにやって来た。
※子一つ(ねひとつ)=午後十一時から十一時半ごろ。
男はた、寝られざりければ、外の方を見出だして臥せるに、
男もまた、(女のことを思って)寝られなかったので、外の方を見て横になっていると、
月のおぼろなるに、小さき童をさきに立てて人立てり。
月のおぼろである光の中に、小さい童女を先に立たせて人(=女)が立っている。
男、いとうれしくて、わが寝る所に率て入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何ごとも語らはぬに帰りにけり。
男は、たいそう嬉しくて、自分が寝ている所に連れて入って、子一つから丑三つまで(一緒に)いたが、まだ何事も(打ち解けて)語り合わないうちに、(女は)帰ってしまった。
※丑三つ(うしみつ)=午前二時から二時半ごろ
男、いとかなしくて、寝ずなりにけり。
男は、とても悲しくて、(そのまま)寝ないでいたのだった。
(2)
つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、
翌朝、(男は女のことが)気がかりであったけれど、自分の従者を(女のもとに)行かせるわけにはいかないので、
いと心もとなくて待ち居れば、明け離れてしばしあるに、女のもとより、詞はなくて、
たいそうじれったく思って待っていると、夜が明けてしばらくした頃に、女の所から、(手紙の)言葉はなくて(歌だけが書かれており)、
君や来し われやゆきけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか
あなたがやって来たのか、私が行ったのか、わかりません。夢だったのか、現実だったのか、寝ている間のことだったのか、目覚めていた時のことだったのでしょうか。
男、いといたう泣きて詠める、
(女の歌に対して、)男が、たいそうひどく泣いて詠んだ歌、
かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは 今宵定めよ
悲しみに暮れる心の闇の中に迷ってしまいました。夢と現実のどちらであったのかは、今夜決めてください。
と詠みてやりて、狩りに出でぬ。
と(男は)詠んで贈って、狩りに出た。
野にありけど、心はそらにて、今宵だに人静めて、いととく逢はむと思ふに、
野を歩き回るけれど、心はうわの空で、せめて今夜だけでも人が寝静まるのを待って、たいそう早く(女に)逢おうと思っていると、
国守、斎宮頭かけたる、狩りの使ひありと聞きて、夜一夜、酒飲みしければ、
伊勢の国守で、斎宮寮の長官を兼ねている人が、狩りの使いがいると聞いて、一晩中、酒宴を催したので、
もはら逢ひごともえせで、明けば尾張の国へ立ちなむとすれば、
まったく逢うこともできず、夜が明けたら尾張の国へ出発しょうという予定なので、
男も人知れず血の涙を流せど、え逢はず。
男も人知れず血の涙を流す(ほど悲しんだ)けれど、逢うことはできない。
夜やうやう明けなむとするほどに、女方より出だす杯の皿に、歌を書きて出だしたり。取りて見れば、
夜がしだいに明けようとする頃に、女の方から差し出す杯を載せる皿に、歌を書いてよこした。(男が)手に取ってみると、
かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば
徒歩の人が渡っても裾が濡れない河(=江)のように、浅い縁でありますので、
と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して、歌の末を書きつぐ。
と書いて、下の句はない。(男は)その杯の皿に、松明の燃え残りの炭で、歌の下の句を書き継ぐ。
※末=和歌の下の句。「五・七・五(本:上の句)/七・七(末:下の句)」
また逢坂の 関は越えなむ
(私は)また逢坂の関を越えようと思う。(そして、再びあなたに逢いましょう。)
とて、明くれば尾張の国へ越えにけり。斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御女、惟喬親王の妹。
と書いて、夜が明けると(男は)尾張の国へ越えて行ってしまった。斎宮は清和天皇の御代の斎宮で、文徳天皇の皇女であり、惟喬親王の妹である。