「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら大鏡『菅原道真の左遷』解説・品詞分解(4)
やがてかしこにてうせ給へる、
(菅原道真は)そのままあの場所(=大宰府)でお亡くなりになったが、
夜の内に、この北野にそこらの松を生ほし給ひて、
(道真の霊が)その夜のうちに、この(京都の)北野にたくさんの松をお生やしになって、
渡り住み給ふをこそは、ただ今の北野の宮と申して、
(道真の霊が大宰府から)移り住みなさった場所を、現在の北野天満宮と申し上げて、
現人神におはしますめれば、
(道真はそこで)現人神でおられるようなので、
おほやけも行幸せしめ給ふ。
帝も行幸なさる。
いとかしこくあがめ奉り給ふめり。
大変恐れ多く崇め申し上げていらっしゃるようだ。
筑紫のおはしまし所は安楽寺といひて、おほやけより別当・所司など成させ給ひて、いとやむごとなし。
筑紫の(道真が)いらっしゃった所は安楽寺といって、朝廷から別当・所司(=役職名)などを任命なさって、たいそう尊い(場所となっている)。
内裏焼けて、たびたび造らせ給ふに、円融院の御時のことなり、
内裏が焼けて、たびたび(帝は)お造りになったが、円融院の御代のことである、
工ども裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、
大工たちが(屋根の)裏板を、たいそうきれいに鉋をかけて退出して、翌朝に参上して見ると、
昨日の裏板に、もののすすけて見ゆる所のありければ、
昨日の裏板に、ぼんやりとすすけて見えるところがあったので、
梯にのぼりて見るに、夜のうちに虫の食めるなりけり。その文字は、
はしごに登って見たところ、夜のうちに虫が食って(文字になって)いたのだった。その文字は、
つくるとも またも焼けなん すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは
造り直そうとも、きっとまた焼けてしまうだろう。棟の板の間が合わない限り直せないように、菅原道真の胸の痛みの傷口が合って治らない限りは。
とこそありけれ。
とあった。
それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。
それもこの北野の神(=菅原道真)がなさったことだと(人々は)申し上げたようだ。
かくて、この大臣、筑紫におはしまして、延喜三年癸亥二月二十五日にうせ給ひしぞかし。御年五十九にて。
こうして、この大臣(=道真)は、筑紫にいらっしゃって、延喜三年癸亥二月二十五日にお亡くなりになったのだよ。御年59歳で。
(4)
また、北野の、神にならせ給ひて、いと恐ろしく神鳴りひらめき、
また、北野(の菅原道真)が、雷神におなりになって、たいそう恐ろしく雷が鳴り光り、
清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、
清涼殿に落ちかかったと見えたが、本院の大臣(=藤原時平)が、太刀を抜き放って、
「生きてもわが次にこそものし給ひしか。
「生きていた時も(あなた=道真は)私の次の位でおられた。
今日、神となり給へりとも、この世には、われに所置き給ふべし。
今日、雷神となっていらっしゃるとしても、この世では、私に遠慮なさるべきだ。
いかでかさらではあるべきぞ。」
どうしてそうでなくてよいはずがあろうか。(いや、遠慮なさるべきだ。)」
と、にらみやりてのたまひける。
と、睨みつけておっしゃった。
一度は鎮まらせ給へりけりとぞ、世の人、申しはべりし。
(そうして、)一度はお鎮まりになったと、世の人々は、申し上げておりました。
されど、それは、かの大臣のいみじうおはするにはあらず、
しかし、それは、あの大臣(=藤原時平)がすぐれていらっしゃるのではなく、
王威の限りなくおはしますによりて、理非を示させ給へるなり。
帝のご威光が限りなくあられることによって、(道真が)理非を示しなさったのである。
※理非(りひ)=道理に合うことと、外れていること。道理と道理に反すること。