青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
天授三年、清河ノ張鎰、因レリテ官ニ家二ヘス于衡州一ニ。
天授三年、清河の張鎰、官に因りて衡州に家す。
※于=置き字(場所)
天授三年、清河の張鎰は、役人として衡州に住んでいた。
性簡静ニシテ、寡二ナシ知友一。無レク子、有二リ女二人一。
性簡静にして、知友寡なし。子無く、女二人有り。
性格は地味で物静かで、友人も少なかった。息子はおらず、娘が二人いた。
其ノ長ハ早ク亡シ、幼女ノ倩娘ハ、端妍絶倫ナリ。
其の長は早く亡し、幼女の倩娘は、端妍絶倫なり。
長女は早くに亡くなり、末の娘の倩娘は、容姿が整って美しいことこの上なかった。
鎰ノ外甥太原ノ王宙ハ、幼ニシテ聡悟、美二シ容範一。
鎰の外甥太原の王宙は、幼にして聡悟、容範美し。
鎰の甥である太原の王宙は、幼い頃から頭がよく、容姿や態度も美しかった。
鎰常ニ器重シ、毎ニ曰ハク、「他時当下ニ/シト以二ツテ倩娘一ヲ妻上レス之ニ。」
鎰常に器重し、毎に曰はく、「他時当に倩娘を以つて之に妻すべし。」と。
※「当レニ/シ ~(ス)」=再読文字、「当に ~(す)べし」、「~すべきである・きっと~のはずだ」
鎰は常に(王宙のことを)立派な人物だと目をかけ、いつも、「いつの日か倩娘を妻にやろう。」と言っていた。
後各長成シ、宙ト与二倩娘一、常ニ私ニ感-二想スルモ於寤寐一ニ、家人莫レシ知二ルコト其ノ状一ヲ。
後各長成し、宙と倩娘と、常に私かに寤寐に感想するも、家人其の状を知ること莫し。
その後それぞれ成長し、宙と倩娘は、常にひそかに寝ても覚めても思いあっていたが、家の者はその状況を知ることはなかった。
後有二リ賓寮之選バルル者一、求レム之ヲ。鎰許レス焉ヲ。女聞キテ而鬱抑ス。
後賓寮の選ばるる者有り、之を求む。鎰焉を許す。女聞きて鬱抑す。
※而=置き字(順接・逆接)
その後官吏に採用された者来て、倩娘を(妻にしたいと)求めた。鎰はこれを許した。娘はこれを聞いてふさぎ込んだ。
宙モ亦深ク恚恨シ、託スルニ以二ツテシテ当調一ヲ、請レフ赴レカント京ニ。
宙も亦深く恚恨し、託するに当調を以つてして、京に赴かんと請ふ。
宙もまた深く怒り恨み、転任することを口実にして、都に行きたいと願い出た。
止レムレドモ之ヲ不レ可カ。遂ニ厚ク遣レル之ヲ。
之を止むれども可かず。遂に厚く之を遣る。
(鎰は)宙を止めたけれども、きかなかった。とうとう旅費を十分に与えて宙を送り出した。
宙陰カニ恨ミテ悲慟シ、決別シテ上レル船ニ。
宙陰かに恨みて悲慟し、決別して船に上る。
宙はひそかに恨んで嘆き悲しみ、別れを告げて舟に乗った。
日暮レ、至二ルコト山郭一ニ数里ナリ。夜方ニ半バニシテ、宙不レ寐ネラレ。
日暮れ、山郭に至ること数里なり。夜方に半ばにして、宙寐ねられず。
日暮れ時に、(出発して)数里ほどで山村に着いた。真夜中になっても、宙は眠れなかった。
忽チ聞ク、岸上ニ有二ルヲ一人一、行声甚ダ速ヤカナリ。須臾ニシテ至レル船ニ。
忽ち聞く、岸上に一人有るを、行声甚だ速やかなり。須臾にして船に至る。
突然岸上でに誰か一人いるのが聞こえ、その足音はとても速かった。すぐに(その足音は)船のもとに着いた。
問レヘバ之ニ、乃チ倩娘ナリ。徒行跣足ニシテ而至レリ。
之に問へば、乃ち倩娘なり。徒行跣足にして至れり。
※而=置き字(順接・逆接)
声をかけると、なんと倩娘であった。裸足で歩いて来たのだった。
宙驚喜シテ発レシ狂ヲ、執レリテ手ヲ問二フ其ノ従リテ来一タルヲ。
宙驚喜して狂を発し、手を執りて其の従りて来るを問ふ。
宙は驚き喜んで気も狂わんばかりで、(倩娘の)手を取ってどういうわけでここへやって来たのかを聞いた。
泣キテ曰ハク、「君ガ厚意如レク此クノ、寝食ニ相感ズ。
泣きて曰はく、「君が厚意此くのごとく、寝食に相感ず。
(倩娘が)泣きながら言うことには、「あなたの厚いお気持ちがこれほどのものであることは、常日頃感じておりました。
今将レニ/ルモ奪二ハント我ガ此ノ志一ヲ、又知二リ君ガ深情ノ不一レルヲ易ハラ、思レフ将二ニ/ルヲ殺レシテ身ヲ奉報一セント。
今将に我が此の志を奪はんとするも、又君が深情の易はらざるを知り、将に身を殺して奉報せんとするを思ふ。
※「将二ニ/ ~一(セ)ント」=再読文字、「将(まさ)に ~(せ)んとす」、「~しようとする・~するつもりだ」
今(両親が)、私のこの気持ちを奪おうとしていますが、またあなたの深い愛情が変わらないと知り、我が身を殺して(あなたの愛情に)報いようと思っています。
是ヲ以ツテ亡命シテ来奔スト。」
是を以つて亡命して来奔す。」と。
※「是ヲ以ツテ」=こういうわけで、それで
こういうわけで、故郷を捨てて逃げてきました。」と。
宙非二ズ意ノ所一レニ望ム、欣躍スルコト特ニ甚ダシ。
宙意の望む所に非ず、欣躍すること特に甚だし。
宙は思いもがけないことで、小躍りして喜ぶことこの上なかった。
遂ニ匿二シ倩娘ヲ于船一ニ、連夜遁レ去ル。倍レシ道ヲ兼レネ行ヲ、数月ニシテ至レル蜀ニ。
遂に倩娘を船に匿し、連夜遁れ去る。道を倍し行を兼ね、数月にして蜀に至る。
そのまま倩娘を船に隠し、夜通し逃げた。道中を倍の速さで行き、数か月で蜀に着いた。
続きはこちら『離魂記(りこんき)』(1)原文・書き下し文・現代語訳