青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名・解説=赤字
野中兼山ハ土佐ノ人ナリ。世仕二フ国侯一ニ。
野中兼山は土佐の人なり。世国侯に仕ふ。
野中兼山は土佐の人である。代々の土佐藩主に仕えた。
嘗テ来二タリ江戸一ニ、及二ブ帰期一ニ也、致二シテ書ヲ郷人一ニ曰ハク、
嘗て江戸に来たり、帰期に及ぶや、書を郷人に致して曰はく、
かつて江戸にやって来て、帰る時期になると、手紙を郷里の人に送って言うことには、
「土佐ハ無二シ物トシテ不一レル有ラ。自二リ江戸一齎シ帰ルハ、惟ダ有二ル蛤蜊一艘一耳。
土佐は物として有らざる無し。江戸より齎し帰るは、惟だ蛤蜊一艘有るのみ。
※「惟ダ ~耳」=限定、「惟だ ~のみ」「ただ ~だけ」
土佐には物として無いものはない。江戸から持って帰ろうとしているものは、ハマグリとアサリを船一艘に積んだだけである。
※土佐には物として無いものはない=あらゆる物が土佐にはある
海路幸ヒニ無レクンバ恙、以二ツテ帰日一ヲ饋レラント之ヲ。」
海路幸ひに恙無くんば、帰日を以って之を饋らん。」と。
船旅が幸ひにも何事もなく無事であれば、帰った日にこれを贈りましょう。
衆以ツテ為レシ嘗二メント異味一ヲ、計レリテ日ヲ待レツ帰ルヲ。
衆以って異味を嘗めんと為し、日を計りて帰るを待つ。
(土佐の)人々は珍しいものを食べられると思い、日にちを数えて(兼山が)帰るのを待った。
既ニ至レバ則チ命ジテ投二ゼシメ其ノ所レヲ漕スル於城下ノ海中一ニ、不レ余二サ一箇一ヲ。
既に至れば則ち命じて其の漕する所を城下の海中に投ぜしめ、一箇を余さず。
※「命レジテAニB(セ)シム」=使役、「Aに命じてB(せ)しむ」、「Aに命じてBさせる」
到着すると、命じて船で運んできたものを城下の海の中に投げ入れさせ、一個も残さなかった。
衆怪シミテ問フ。兼山笑ヒテ曰ハク、
衆怪しみて問ふ。兼山笑ひて曰はく、
人々は不思議に思い(その理由を)尋ねた。兼山は笑って言うことには、
「此レ不三独リ饋二ルノミナラ諸卿一ニ、使二ムル卿ノ子孫ヲシテ亦飫一レカ之ニ也ト。」
「此れ独り諸卿に饋るのみならず、卿の子孫をして亦之に飫かしむるなり。」と。
※「独リ ~ノミ」=限定、「ただ ~だけ」
※使=使役「使二ムAヲシテB一(セ)」→「AをしてB(せ)しむ」→「AにBさせる」
これはただ君たちだけに贈るのではない、君たちの子孫にもこれ(=ハマグリとアサリ)を食べ飽きさせるのだ。
自レリ此後、果タシテ多ク生二ジ蛤蜊一ヲ、遂ニ為二レリ名産一ト。
此より後、果たして多く蛤蜊を生じ、遂に名産と為れり。
この出来事があってから後、結果として多くのハマグリとアサリが繁殖し、こうして(土佐の)名産となった。
衆始メテ服二セリ其ノ遠慮一ニ。
衆始めて其の遠慮に服せり。
人々はその時に初めて、兼山の遠い将来まで見通した深い考えに感服した。