「黒=原文」・「青=現代語訳」
【主な登場人物】
大入道殿=藤原兼家、道長・道隆・道兼の親。 中の関白殿=藤原道隆、兼家の子。 粟田殿=藤原道兼、兼家の子。 入道殿=藤原道長、兼家の子。教通の親 内大臣殿=藤原教通、道長の子 四条の大納言=藤原公任
解説・品詞分解のみはこちら大鏡『肝だめし』解説・品詞分解(3)
「子四つ。」と奏して、かく仰せられ議するほどに、丑にもなりにけむ。
「子四つ(=午前一時半頃)。」と(役人が天皇に)申し上げてから、このようにおっしゃって相談するうちに、丑の刻(=午前二時頃)にもなったのであろう。
「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ。」と、それをさへ分かたせ給へば、
(帝は、)「道隆は右衛門の陣から出よ。道長は承明門から出よ。」と、それ(=出て行く場所)までもお分けなったので、
しかおはしましあへるに、中の関白殿、陣まで念じておはしましたるに、
そのようにそれぞれお出かけになったところ、中の関白殿(=道隆)は、(右衛門の)陣までは我慢していらっしゃったが、
宴の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術なくて帰り給ふ。
宴の松原の辺りで、何とも得体の知れない声などが聞こえるので、どうしようもなくてお帰りになる。
粟田殿は、露台の外まで、わななくわななくおはしたるに、
粟田殿(=道兼)は、露台の外まで、ぶるぶる震えていらっしゃったが、
仁寿殿の東面の砌のほどに、軒と等しき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、
仁寿殿の東側の敷石の辺りに、軒と同じぐらいの(身長の)人がいるように見えなさったので、正気を失って、
「身の候はばこそ、仰せ言も承らめ。」とて、
「わが身が無事でございましてこそ、(帝の)ご命令もお受けできるだろう。」と思って、
おのおの立ち帰り参り給へれば、御扇をたたきて笑はせ給ふに、
それぞれ引き返して参りなさったので、(帝は)御扇をたたいて笑いなさるが、
入道殿は、いと久しく見えさせ給はぬを、いかがと思し召すほどにぞ、
入道殿(=道長)は、たいそう長い間お見えにならないので、どうしたのかとお思いになっているうちに、
いとさりげなく、事にもあらずげにて、参らせ給へる。
たいそう何気なく、なんということもない様子で、帰って参りなさった。
「いかにいかに。」と問はせ給へば、
(帝が、)「どうしたどうした。」と尋ねなさると、
いとのどやかに、御刀に、削られたるものを取り具して奉らせ給ふに、
(入道殿は)たいそう落ち着いて、御刀に、削り取られたものを取り添えて(帝に)差し上げなさるので、
「こは何ぞ。」と仰せらるれば、
(帝が、)「これは何か。」とおっしゃると、
「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、
(入道殿は、)「何も持たずに帰って参りましたならば、証拠がございませんでしょうから、
高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり。」と、
(大極殿の)高御座の南側の柱の下を削ってございますのです。」と、
つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。
平然と申し上げなさるので、(帝は)たいそう驚きあきれたこととお思いになる。
異殿たちの御気色は、いかにもなほ直らで、
他の殿たち(=道隆・道兼)のお顔色は、どうしてもやはり直らなくて、
この殿のかくて参り給へるを、帝よりはじめ感じののしられ給へど、
この殿(=道長)がこのように帰って参りなさったのを、帝をはじめとして感心して褒め騒ぎなさったけれど、
うらやましきにや、またいかなるにか、
(道隆と道兼は)うらやましいのであろうか、またどういうことであろうか、
ものも言はでぞ候ひ給ひける。
何も言わないでお控えしていらっしゃった。
なほ疑はしく思し召されければ、つとめて、
(帝は)それでもやはり、疑わしくお思いになっていらっしゃったので、翌朝、
「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ。」と仰せ言ありければ、
「蔵人に命じて、削り屑を(もとの所に)あてがわせてみよ。」とご命令があったので、
持て行きて押し付けて見たうびけるに、つゆ違はざりけり。
(蔵人が)持って行って押しつけてご覧になったところ、少しも違わなかった。
その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。
その削り跡は、たいそうはっきりと残っているようです。
末の世にも、見る人はなほ あさましきことにぞ申ししかし。
後の世にも、(それを)見る人はやはり驚きあきれることと申しましたよ。