「青=現代語訳」
解説・品詞分解のみはこちら伊勢物語『渚の院』解説・品詞分解(1)
昔、惟喬親王と申す親王おはしましけり。
昔、惟喬親王と申し上げる親王がいらっしゃった。
山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。
山崎の向こうの、水無瀬という所に、お屋敷があった。
年ごとの桜の花盛りには、その宮へなむおはしましける。
毎年の桜の花盛りには、その屋敷へとお行きになった。
その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。
その時、右の馬の頭であった人を、いつも引き連れていらっしゃった。
時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。
時代を経て久しくなってまったので、その人の名前は忘れてしまった。
狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。
狩りは熱心にもしないで、酒を飲んでは、和歌に熱中していた。
今狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。
今、狩りをする交野の渚の家、その院の桜が特に趣深い。
※院(いん)=名詞、宮殿、貴族の邸宅。上皇、法皇。上皇・法皇などの御所。
その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしにさして、上、中、下、みな歌詠みけり。
その木の下に(馬から)下りて座って、(その桜の木の)枝を折って髪飾りとして挿して、上、中、下(の身分を問わず)、みな歌を詠んだ。
馬の頭なりける人の詠める。
馬の頭であった人の詠んだ(歌)。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
もし世の中にまったく桜がなかったならば、春の人々の心はのどかだっただろうに。
となむ詠みたりける。また人の歌、
と詠んだ。また(別の)人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
散るからこそ、いっそう桜はすばらしいのだ。つらいこの世にいつまでも変わらないものなどあるだろうか。(いや、ありはしない。)
とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。
と詠んで、その木の下からは立って帰るうちに、日暮れになってしまった。
(2)
御供なる人、酒をもたせて、野より出で来たり。
お供の者が、酒を(従者に)持たせて、野(の方)から出て来た。
この酒を飲みてむとて、よき所を求め行くに、天の河といふ所に至りぬ。
この酒を飲んでしまおうといって、よい場所を求めて行くと、天の川という所についた。
親王に馬の頭、大御酒参る。親王ののたまひける、
親王に馬の頭が、お酒をさしあげる。親王がおっしゃったことには
「交野を狩りて天の河のほとりに至るを題にて、歌詠みて杯はさせ。」
「交野で狩りをして、天の川のほとりにだとり着いたことをお題にして、歌を詠んで杯をつぎなさい。」
とのたまうければ、かの馬の頭、詠みて奉りける。
とおっしゃったので、あの馬の頭は、詠んで申し上げた(歌)。
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして(日が暮れたので)、織姫に宿を借りよう。天の河原に私は来てしまったことだから。
親王、歌を返す返す誦じ給うて、返しえし給はず。
親王は、歌を何度も繰り返し口ずさみなさって、返歌をなさることができない。
紀有常、御供に仕うまつれり。それが返し、
紀有常も、お供としてお仕えしていた。その者(=紀有常)の返歌。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ 思ふ
(織姫は)一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人もあるまいと思う
帰りて宮に入らせ給ひぬ。
(親王は)帰ってお屋敷にお入りになった。
夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。
夜が更けるまで酒を飲み、お話をして、主人である親王は、酔って(寝床に)お入りになろうとする。
十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬の頭の詠める。
(ちょうど)十一日の月も(山に)隠れようとしているので、あの馬頭が詠んだ(歌)。
飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても)飽きないのに早くも月は隠れるのだなあ。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。
親王にかはり奉りて、紀有常、
親王に代わり申し上げて、紀有常(が詠んだ歌)、
おしなべて 峰も平らに なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
すべて一様に、峰が平らになってほしい。山の端がなければ、月も入らないだろうよ。