「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら枕草子『大納言殿参り給ひて』解説・品詞分解(1)
大納言殿参り給ひて、文のことなど奏し給ふに、
大納言殿が参上なさって、漢詩文のことなどを天皇(=一条天皇)に申し上げなさっているうちに、
例の、夜いたく更けぬれば、
いつものように、夜がすっかり更けてしまったので、
御前なる人々、一人二人づつ失せて、御屏風、御几帳の後ろなどに、みな隠れ臥しぬれば、
(天皇の)おそばにいる女房たちは、一人二人ずつ退出して、御屏風や御几帳の後ろなどに皆隠れて寝てしまったので、
ただ一人、ねぶたき念じて候ふに、「丑四つ。」と奏すなり。
(私は)ただ一人、眠たいのを我慢してお仕えし申し上げていると、「丑四つ(=午前二時半)。」と(時刻を)天皇に申し上げているようだ。
「明け侍りぬなり。」と独りごつを、
(私が)「夜が明けてしまったようです。」と独り言をいうと、
大納言殿、「いまさらに、な大殿籠りおはしましそ。」とて、
大納言殿が(天皇と中宮に)「今頃になって、お休みなさいますな。」と言って、
寝べきものとも思いたらぬを、
当然寝るはずのものだともお思いになっていないので、
「うたて、何しにさ申しつらむ。」と思へど、
(私は)「嫌だ、どうしてそのように申し上げたのだろうか。」と思うけれど、
※「さ(=そのように)」の内容は「明け侍りぬなり」
また人のあらばこそは紛れも臥さめ。
他の女房がいるならばそれに紛れて寝るだろう。(しかし。私一人なのでそれもできない)
上の御前の、柱に寄りかからせ給ひて、少し眠らせ給ふを、
天皇が、柱に寄りかかりなさって、少しお眠りになるのを、
「かれ見奉らせ給へ。
(大納言殿が)「あれ(=天皇が寝ている姿)を拝見なさいませ。
いまは明けぬるに、かう大殿籠るべきかは。」
今はもう夜が明けてしまったのに、このようにお休みになってよいものでしょうか。(いや、よくないでしょう。)」
と申させ給へば、
と、(中宮定子に)申し上げなさると、
「げに。」など、宮の御前にも笑ひ聞こえさせ給ふも、
「本当に。」などと、中宮様がお笑い申し上げなさるのも、
知らせ給はぬほどに、
(天皇は)ご存知にならないうちに、
長女が童の、鶏を捕らへ持て来て、朝に里へ持て行かむと言ひて隠し置きたりける、いかがしけむ、
長女(=下級女官の長)が使っている童女が、鶏を捕まえて持って来て、「翌朝に実家へ持って行こう。」と隠しておいていた鶏を、どうしたのだろうか、
犬見つけて追ひければ、廊のまきに逃げ入りて、恐ろしう鳴きののしるに、
犬が見つけて追いかけたので、(鶏は)廊下の長押(=敷居の下にある角材)の上の棚に逃げ込んで、恐ろしく鳴き騒ぐので、
みな人起きなどしぬなり。
(女房たちは)皆、起きなどしてしまったようだ。
上もうち驚かせ給ひて、
天皇も目をお覚ましになって、
「いかでありつる鶏ぞ。」などたづねさせ給ふに、
「(こんな所に)どうして鶏がいたのか。」などとお尋ねになると、
大納言殿の、「声、明王の眠りを驚かす。」といふことを、高ううち出だし給へる、
大納言殿が、「声、明王の眠りを驚かす(=覚まさせる)。」という漢詩を、声高に吟じなさったのが、
めでたうをかしきに、ただ人の眠たかりつる目もいと大きになりぬ。
(その場の状況にふさわしくて)すばらしく趣深いもので、(明王≒天皇だけでなく)家臣(=私)の眠たかった目もたいそう大きく開いた。
「いみじき折の言かな。」と、上も宮も輿ぜさせ給ふ。
「とてもこの場にふさわしい詩句だよ。」と天皇も中宮様も面白がっていらっしゃる。
なほ、かかることこそめでたけれ。
やはり、このようなことはすばらしいものだ。
※このようなこと=即興でその場にふさわしい詩句を吟ずること
(2)
またの夜は、夜の御殿に参らせ給ひぬ。
翌日の夜は、(中宮様は)天皇のご寝室に参上なさいった。
夜中ばかりに、廊に出でて人呼べば、
(私は)夜中頃に、廊下に出て人を呼んぶと、
「下るるか。いで、送らむ。」とのたまへば、
(大納言殿が)「(局=部屋に)下がるのか、では送ろう。」とおっしゃるので、
裳、唐衣は屏風にうちかけて行くに、月のいみじう明かく、御直衣のいと白う見ゆるに、
(私は)裳や唐衣は屏風にかけて行くと、月がとても明るくて、(大納言殿の)御直衣がたいそう白く見えて、
指貫を長う踏みしだきて、袖をひかへて、「倒るな。」と言ひて、おはするままに、
指貫を長く踏んで、(私の)袖をつかんで、「転ぶなよ。」と言って、お歩きになりながら、
「遊子なほ残りの月に行く。」と誦し給へる、またいみじうめでたし。
「遊子なほ残りの月に行く(=旅人は、やはり残月の中を進んでいく。)」と(大納言殿が)吟じなさったのは、またとてもすばらしい。
「かやうのこと、めで給ふ。」とては、笑ひ給へど、
(大納言殿は)「このようなことで、おほめになる。」と言っては、笑いなさるけれど、
いかでか、なほをかしきものをば。
どうしてか、やはりすばらしいものを(褒めないことがあるだろうか。いや、褒めずにはいられない)。