「黒=原文」・「赤=解説」・「青=現代語訳」
原文・現代語訳のみはこちら徒然草『花は盛りに』(1)(2)現代語訳
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものか は。
さ=副詞、そう、その通りに、そのように。
か=反語の係助詞、結びは連体形となるが、ここでは省略されている。係り結びの省略。「なら(断定の助動詞・未然形)/む(推量の助動詞・連体形)」などが省略されていると考えられる。
は=強調の係助詞。現代語でもそうだが、疑問文を強調していうと反語となる。「~か!(いや、そうじゃないだろう。)」。なので、「~かは・~やは」とあれば反語の可能性が高い。
総じて、月や花をそのように目だけで見るものであろうか。
春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へる こそ、いと頼もしう、をかしけれ。
で=打消の接続助詞、接続は未然形。「ず(打消しの助動詞)+して(接続助詞)」→「で」となったもの。
閨(ねや)=名詞、寝室
る=存続の助動詞「り」の連体形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形
こそ=強調の係助詞、結びは已然形となる。係り結び。
をかしけれ=シク活用の形容詞「をかし」の已然形。係助詞「こそ」を受けて已然形となっている。係り結び。趣深い、趣がある、風情がある。素晴らしい。かわいらしい。こっけいだ、おかしい。カ行四段動詞「招(を)く」が形容詞化したもので「招き寄せたい」という意味が元になっている。
春は家を出ていかなくても、月夜は寝室の中に居ながらでも(月を)思っているのこそ、とても楽しみに思えて、趣がある。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。
ひとへに=副詞、ひたすら、一途に
る=存続の助動詞「り」の連体形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形
ず=打消の助動詞「ず」の連用形、接続は未然形
興ずる=サ変動詞「興ず」の連体形、面白がる、興じる。「名詞+す(サ変動詞)」で一つのサ変動詞になるものがいくらかある。例:「音す」、「愛す」、「心す」、「御覧ず」
なほざりなり=ナリ活用の形容動詞「等閑なり(なほざりなり)」の終止形、おろそかだ、いいかげんだ。ほどほどである。適度だ。
情趣を解する人は、ひたすらに風流を好む様子にも見えず、面白がる様子もほどほどである。
片田舎の人こそ、色濃く、よろづはもて興ずれ。
こそ=強調の係助詞、結びは已然形となる。係り結び。
よろづ(万)=名詞、すべてのこと、あらゆること。
もて興ずれ=サ変動詞「もて興ず」已然形。係助詞「こそ」を受けて已然形となっている。係り結び。面白がる、興じる。「もて」は接頭語で、あまり意味はない。
片田舎の人に限って、しつこく、何事につけても面白がるのだ。
花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせず まもりて、酒飲み、連歌して、果ては、大きなる枝、心なく折り取らぬ。
傍目(あからめ)=名詞、よそ見、わき見。浮気、(男が)他の女に心を移すこと。急に姿が見えなくなること、雲隠れ。
ず=打消の助動詞「ず」の連用形、接続は未然形
まもり=ラ行四段動詞「守る(まもる)」の連用形、目を離さずに見る、じっと見つめる、見守る。
ぬ=完了の助動詞「ぬ」の終止形、接続は連用形
花の下には、にじり寄り立ち寄って、よそ見もせずじっと(花を)見つめて、酒を飲み、連歌をして、最終的には、大きな枝を、心なく折り取ってしまう。
泉には手・足さしひたして、雪には降り立ちて跡つけなど、よろづのもの、よそながら見ることなし。
よろづ(万)=名詞、すべてのこと、あらゆること。
泉には手や足を入れて浸し、雪(が積もった日)には降り立って足跡をつけるなど、あらゆるものを、距離をとって見るということがない。
さやうの人の祭り見しさま、いと珍らかなり き。
さやう=ナリ活用の形容動詞「さやうなり」の語幹。そのよう、その通りだ。形容動詞の語幹+格助詞「の」=連体修飾語
し=過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形
めづらかなり=ナリ活用の形容動詞「珍らかなり(めづらかなり)」の連用形、珍しい、普通とは違う、めったにない。
き=過去の助動詞「き」の終止形、接続は連用形
そのような人が(賀茂の)祭りを見物した様子は、たいそう珍しいものであった。
「見ごといと遅し。そのほどは桟敷不用なり。」とて、
「見もの(の祭りの行列が来るの)がたいそう遅い。その時までは桟敷(=見物するための席)にいる必要はない。」と言って、
奥なる屋にて酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれ ば、
なる=存在の助動詞「なり」の連体形、接続は体言・連体形。「なり」は直前が名詞である時、断定の意味になることが多いが、その名詞が場所を表すものであれば今回のように「存在」の意味となることがある。訳:「 ~にある」
たれ=存続の助動詞「たり」の已然形、接続は連用形
ば=接続助詞、直前が已然形だから①原因・理由「~なので、~から」②偶然条件「~ところ・~と」③恒常条件「(~する)といつも」のどれかであるが、文脈判断をして①の意味でとる。ちなみに、直前が未然形ならば④仮定条件「もし~ならば」である。
(桟敷の)奥にある部屋で酒を飲み、物を食い、囲碁や双六などで遊んで、桟敷には人を置いているので、
「渡り候ふ。」と言ふ時に、おのおの肝つぶるる やうに争ひ走り上りて、
候ふ=補助動詞ハ行四段「候ふ(さぶらふ)」の終止形、丁寧語。言葉の受け手(聞き手)であるさやうの人(奥にある部屋で飲み食いして遊んだりしている人たち)を敬っている。おそらく桟敷にいる人からの敬意。
※「候ふ(さぶらふ)・侍り(はべり)」は補助動詞だと丁寧語「~です、~ます」の意味であるが、本動詞だと、丁寧語「あります、ございます、おります」と謙譲語「お仕え申し上げる、お控え申し上げる」の二つ意味がある。
つぶるる=ラ行下二段動詞「潰る(つぶる)」の連体形
やうに=比況の助動詞「やうなり」の連用形
「(行列が)通ります。」と言う時に、おのおの肝がつぶれるような勢いで争い(桟敷に)走り上って、
落ちぬ べきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見洩らさじとまもりて、
ぬ=強意の助動詞「ぬ」の終止形、接続は連用形。「つ・ぬ」は「完了・強意」の二つの意味があるが、直後に推量系統の助動詞「む・べし・らむ・まし」などが来るときには「強意」の意味となる。
べき=推量の助動詞「べし」の連体形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。㋜推量㋑意志㋕可能㋣当然㋱命令㋢適当のおよそ六つの意味がある。
じ=打消意志の助動詞「じ」の終止形、接続は未然形
まもり=ラ行四段動詞「守る(まもる)」の連用形、目を離さずに見る、じっと見つめる、見守る。
(桟敷から今にも)落ちそうなほどまでに簾を張り出して、押し合いつつ、一つも見逃すまいとじっと見て
「とあり、かかり。」と物ごとに言ひて、渡り過ぎぬれ ば、
と=副詞、そのように、あのように
かかり=ラ変動詞「かかり」の終止形。このようだ、こうだ。
ぬれ=完了の助動詞「ぬ」の已然形、接続は連用形
ば=接続助詞、直前が已然形であり、②偶然条件「~ところ・~と」の意味で使われている。
「ああだ、こうだ。」と何かあるたびに言って、(行列が)通り過ぎてしまうと、
「また渡らんまで。」と言ひて降りぬ。ただ、物をのみ見んとするなる べし。
ん=婉曲の助動詞「む」の連体形が音便化したもの、接続は未然形。この「む」は、㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文中に来ると「㋕仮定・㋓婉曲」のどれかである。直後に体言があると婉曲になりがち。訳:「通る(ような時)まで」
ぬ=完了の助動詞「ぬ」の終止形、接続は連用形
ん=意志の助動詞「む」の終止形が音便化したもの、接続は未然形。㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末に来ると「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」のどれかである。
なる=断定の助動詞「なり」の連体形、接続は体言・連体形
べし=推量の助動詞「べし」の終止形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。㋜推量㋑意志㋕可能㋣当然㋱命令㋢適当のおよそ六つの意味がある。
「また通るまで。」と言って(桟敷を)降りていった。ただ、行列だけを見ようとするのであろう。
都の人の ゆゆしげなるは、睡りていとも見ず。
の=格助詞、用法は同格。「で」に置き換えて訳すと良い。「都の人の、」→「都の人で、」
ゆゆしげなる=ナリ活用の形容動詞「忌々しげなり(ゆゆしげなり)」の連体形、触れてはならない神聖なことが原義。(良くも悪くも)程度がはなはだしい様子。不吉な感じだ、恐れ多い、縁起が悪い。おそろしいようだ、気味が悪いようだ。
ず=打消の助動詞「ず」の終止形、接続は未然形
都の人で身分の高いような人は、目をつぶって眠ったようにしていてたいして見ない。
若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後ろに候ふは、さまあしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
候ふ=ハ行四段動詞「候ふ(さぶらふ)」の連体形、謙譲語。お仕えする、(貴人の)お側にお仕えする。動作の対象である主人を敬っている。作者からの敬意。
さまあしく=シク活用の形容詞「様悪し(さまあし)」の連用形、見苦しい、みっともない、体裁が悪い。
ず=打消の助動詞「ず」の連用形、接続は未然形
わりなく=ク活用の形容詞「わりなし」の連用形、「理(ことわり)なし」と言う意味からきている。道理に合わない、分別がない、程度がひどい。
ん=意志の助動詞「む」の終止形が音便化したもの、接続は未然形。㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末に来ると「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」のどれかである。
若く身分の低い人たちは、主人に仕えて立ったり座ったりして、主人の後ろにお仕えしている者は、みっともなくのしかからず、分別をわきまえずに見ようとする人もいない。