「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら枕草子『上にさぶらふ御猫は』解説・品詞分解(2)
「あはれ、いみじうゆるぎありきつるものを。
ああ、(ついこの前までは、)たいそう身体を揺すって得意げに歩いていたのに。
三月三日、頭の弁の柳かづらせさせ、桃の花かざしにささせ、桜腰にさしなどして、
三月三日に、頭の弁が(翁丸に)柳の髪飾りをつけさせ、桃の花のかんざしにして挿させ、桜の枝を腰に挿したりなどして、
※頭の弁=蔵人頭(くろうどのとう)、蔵人所の長官。ここでは藤原行成のことを指している。
※柳かづら=柳の枝で作った髪飾り。
ありかせ給ひし折、
歩かせなさった時には、
かかる目見むとは思はざりけむ。」などあはれがる。
こんな目に会おうとは(翁丸も)思わなかっただろう。」などとかわいそうに思う。
「御膳の折は、必ず向かひ候ふに、さうざうしくこそあれ。」など言ひて、三四日になりぬる、昼つ方、
「(中宮様の)お食事の際には、必ず(中宮様の方に)向いて控えていたのに、心寂しいことだわ。」などと言って、三、四日経ってしまった昼頃、
犬いみじう泣く声のすれば、
犬がひどく鳴く声がするので、
なぞの犬の、かく久しう鳴くにかあらむと聞くに、よろづの犬とぶらひ見に行く。
どのような犬が、このように長く鳴いているのであろうかと思って聞いていると、たくさんの犬が様子を見に行く。
御厠人なる者走りきて、「あないみじ。犬を蔵人二人して打ち給ふ。死ぬべし。
御厠人の者が走って来て、「ああ、ひどい。犬を蔵人二人がかりで叩きなさっている。死んでしまうでしょう。
※御厠人=便所掃除を担当する身分の低い女官
犬を流させ給ひけるが、帰り参りたるとて、調じ給ふ。」と言ふ。
犬を追放なさったのが、帰って参ったと言って、こらしめなさる。」と言う。
心憂のことや。翁丸なり。
心配なことよ。(その犬は)翁丸である。
「忠隆・実房なんど打つ。」と言へば、制しにやるほどに、からうじて鳴きやみ、
「忠隆、実房などが叩いている。」と言うので、止めにやるうちに、やっとのことで鳴き止み、
「死にければ、陣の外にひき捨てつ。」と言へば、
「死んだので、陣の外に捨ててしまった。」と言うので、
陣=宮中警護の詰所。
あはれがりなどする夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば、
悲しんだりなどしているその夕方、ひどく腫れ上がり、驚きあきれるほどひどい様子の犬でみすぼらしそうな犬が、震えながら歩き回るので、
「翁丸か。このごろ、かかる犬やはありく。」など言ふに、
「翁丸か。この時間帯に、このような犬が歩き回っているものか。(いや、そのようなはずはないだろう。)」などと言うが、
「翁丸。」と言へど、耳にも聞き入れず。
(念のため)「翁丸。」と呼ぶけれど、(犬は)聞き入れない。
「それ。」とも言ひ、「あらず。」とも口ぐち申せば、
「そうだ。」とも言い、「違う。」とも口々に申すので、
「右近ぞ見知りたる。呼べ。」とて召せば、参りたり。
(中宮様が、)「右近がよく知っている。呼びなさい。」とおっしゃってお呼びになると、(右近が)参上した。
「これは翁丸か。」と見せさせ給ふ。
(中宮様は、)「これは翁丸か。」とお見せになる。
「似ては侍れど、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。
(右近は、)「似てはおりますけれど、これはひどい様子でございますようだ。
また、『翁丸か。』とだに言へば、喜びてまうで来るものを、呼べど寄り来ず。
また、『翁丸か。』とさえ言うと、喜んで寄って参って来るが、呼んでも寄って来ない。
あらぬなめり。
違う犬であるようだ。
『それは打ち殺して、捨て侍りぬ。』とこそ申しつれ。
『翁丸は打ち殺して、捨ててしまいました。』と申していた。
二人して打たむには、侍りなむや。」
二人がかりで叩いたのでしたら、生きてございますでしょうか。(いや、生きてはいないでしょう。)」
など申せば、心憂がらせ給ふ。
などと申し上げるので、(中宮様は)残念に思いなさる。
続きはこちら枕草子『上にさぶらふ御猫は』現代語訳(3)(4)