「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら源氏物語『夕顔(廃院の怪)』解説・品詞分解(3)
帰り入りて、探り給へば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
(光源氏が部屋に)帰って入って、探りなさると、夕顔はもとのまま倒れ伏して、右近はそのそばにうつぶせになっている。
「こはなぞ。あな、もの狂ほしの物怖ぢや。
(光源氏は、)「これはどうしたことだ。まあなんとも、狂気じみたほどの怖がりようだ。
荒れたる所は、狐などやうのものの、人脅かさむとて、け恐ろしう思はするならむ。
荒れている所は、狐などのようなものが、人をおどかそうとして、なんとなく恐ろしく思わせるのであろう。
まろあれば、さやうのものには脅されじ。」とて、引き起こし給ふ。
私がいるのだから、そのようなものには脅かされまい。」と言って、(右近を)引き起こしなさる。
「いとうたて、乱り心地の悪しう侍れば、うつぶし臥して侍るや。
(右近は、)「とても気味が悪く、気分が悪くございますので、うつぶせになっておりましたのよ。
御前にこそわりなく思さるらめ。」と言へば、
ご主人様(=夕顔)のほうがむやみに(恐ろしく)お思いになっているでしょう。」と言うので、
「そよ。などかうは。」とて、かい探り給ふに、息もせず。
(光源氏は、)「そうだ。どうしてこのように(異常に怖がるのか)。」と言って、手探りなさるが、(夕顔は)息もしていない。
引き動かし給へど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、
ゆすり動かしなさるけれど、ぐったりとして、意識不明の状態であるので、
いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめりと、
たいそうひどく子どもっぽい人で、物の怪に魂を奪われてしまったのだろうと、
せむかたなき心地し給ふ。
どうしようもないお気持ちになる。
紙燭持て参れり。
(院の預かりの子が)紙燭を持って参上した。
右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、
右近も動ける様子でもないので、(光源氏は)近くの几帳を引き寄せて、
※当時の身分ある女性は異性に姿を見られないようにしなければならなかった。そこで院の預かり子に夕顔の姿を見られないようにするため、光源氏はこのような行動をとった。
「なほ持て参れ。」とのたまふ。
「もっと(紙燭を近くに)持って参れ。」とおっしゃる。
例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押にもえのぼらず。
普段はないことなので、おそば近くにも参上することができない、遠慮深さのために、長押(=敷居の下にある角材)にも上がれない。
「なほ持て来や。所に従ひてこそ。」とて、
(光源氏は)「もっと(近くに)持って来なさいよ。所に応じて(遠慮というものはするべき)だ。」と言って、
召し寄せて見給へば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。
(紙燭を)お取り寄せになって(夕顔を)ご覧になると、ちょうど枕元に、夢に見た容貌をした女が、幻に見えて、ふっと消え失せてしまった。
昔の物語などにこそ、かかることは聞け、
昔の物語などに、このようなことは聞くけれども、(しかし、実際にこうして目の当たりにするとは、)
といとめづらかにむくつけけれど、
と、たいそう珍しく気味が悪いが、
まづ、この人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、
まず、この人(=夕顔)がどうなってしまったのかとお思いになる胸騒ぎで、
身の上も知られ給はず、添ひ臥して、
自分の身の安全もお考えになることができず、寄り添って、
※物の怪に取りつかれた人や死んだ人に近づくことは危険なことだとされていた。
「やや。」と、驚かし給へど、
「これこれ。」と、目を覚ませようとなさるけれど、
ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶え果てにけり。
(夕顔の体は)ただひたすら冷たくなっていって、息はすでに絶え果ててしまっていた。
(4)
言はむ方なし。
(光源氏は、)なんとも言いようがない。
頼もしく、いかにと言ひ触れ給ふべき人もなし。
頼みにできて、どうしたらよいかとご相談できる人もいない。
法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。
法師などこそ、このようなときの頼りになる者とお思いになるはずだけれども(、そのような者はいない)。
さこそ強がり給へど、若き御心にて、
(光源氏は)そのように強がりなさるが、(年齢の)若いお心で、
言ふかひなくなりぬるを見給ふに、やる方なくて、つと抱きて、
(夕顔が死んで)どうしようもなくなってしまったのをご覧になると、やりようのない気持ちになって、じっと抱きしめて、
「あが君、生き出で給へ。いといみじき目な見せ給ひそ。」
「いとしの君よ、生き返ってください。(私に)ひどい目を見させないでください。」
とのたまへど、冷え入りに たれば、けはひものうとくなりゆく。
とおっしゃるけれど、冷え切ってしまっているので、(人としての)様子が薄くなっていく。
右近は、ただあなむつかしと思ひける心地みなさめて、泣き惑ふさまいといみじ。
右近は、ただああ気味が悪いと思っていた気持ちがすっかり消えて、とにかく泣く様子は本当にひどいものである。
南殿の鬼の、なにがしの大臣おびやかしける例を思し出でて、心強く、
(光源氏は、)紫宸殿の鬼がなんとかいう大臣を脅かした例を思い出しなさって、心強く、
※紫宸殿(ししんでん)=宮中の一部で、重要な儀式を行う場所。南殿。
「さりとも、いたづらになり果て給はじ。
「そうであっても、死んでしまわれることはないだろう。
夜の声はおどろおどろし。あなかま。」
夜中の泣き声はおおげさに聞こえる。静かにしなさい。」
と諌め給ひて、いとあわたたしきにあきれたる心地し給ふ。
とお諫めになって、たいそう急なことに途方にくれる気持ちがなさる。