「黒=原文」・「青=現代語訳」
大納言なりける人小侍従と聞えし歌詠みに通はれけり。
大納言であった人が、小侍従と申し上げた歌詠みの所に通いなされていた。
ある夜、もの言ひて暁帰られけるに、女の家の門を遣り出だされけるが、
ある夜、契りを交わして、(大納言が)夜明け前にお帰りになった時に、女の家の門から(車を)お出しになられたが、
きと見返りたりければ、この女名残を思ふかとおぼしくて、車寄せの簾に透きて、ひとり残りたりけるが、
(女の家の方を)少し振り返って見ていたところ、この女が名残を惜しむかのように思われて、車を寄せて止まる所の簾に透けて、一人残っていたのが、
心にかかりおぼえてければ、供なりける蔵人に、
気がかりに思われたので、(大納言の)お供であった蔵人に、
「いまだ入りやらで見送りたるが、ふり捨てがたきに、何とまれ、言ひて来。」
「(家の中に)まだ入らないで見送っているのが、振り捨てて帰りにくいので、何でもよいから言って来い。」
とのたまひければ、ゆゆしき大事かなとおもへども、
とおしゃったので、大変なことだなあと思ったけれども、
ほど経べきことならねば、やがてはしり入りぬ。
時間がたってはならない事だったので、すぐに(女の家に)駆け入った。
車寄せの縁の際にかしこまりて、「申せと候ふ。」とは、
車を寄せて止まる所の縁の端にかしこまって、「(大納言の命令で私からあなたに)申し上げなさいとの事でございます。」とは、
さうなく言ひ出でたれど、何と言ふべき言の葉もおぼえぬに、
あれこれ考えることもなく言い出したけれど、何を言うべきか、言葉も思い浮かばなかったところ、
折しも、ゆふつけ鳥声々に鳴き出でたりけるに、
ちょうどそんな時、鶏が声々に鳴き出したので、
「あかぬ別れの」と言ひけることの、きと思ひ出でられければ、
(小侍従の詠んだ歌にある)「あかぬ別れの」といったことが、とっさに思い出されたので、
※「待つ宵の ふけゆく鐘の 声きけば あかぬ別れの 鳥はものかは」
「恋人を待つ宵の更けゆくことを知らせる鐘の音を聞くのに比べると、名残惜しい別れ告げる(朝の)鳥の声など何ということもない。」
ものかはと 君が言ひけん 鳥の音の 今朝しもなどか 悲しかるらん
何ということもないとあなたが(和歌の中で)言ったという鳥の声が、今朝はどうして悲しいのでしょうか。
とばかり言ひかけて、やがて走りつきて、車のしりに乗りぬ。
とだけ言葉をかけて、(蔵人は大納言の車のもとへ)すぐに走り追いついて、車の後方に乗った。
家に帰りて中門に下りて後、「さても何とか言ひたりつる。」と問ひ給ひければ、
(大納言の)家に帰って、中門に降りた後、「それにしても何と言ったのか。」と(大納言が)尋ねなさったところ、
「かくこそ。」と申しければ、
「このように(でございます)。」と(蔵人が説明し)申し上げたので、
いみじくめでたがられけり。
たいそう感心なさった。
「さればこそ、使ひにははからひつれ。」とて、
「だからこそ、(おまえを)使いにと思ったのだ。」と言って、
感のあまりに、しる所などたびたりけるとなん。
感動のあまりに、領有している土地などを(その蔵人に)お与えになったということだ。
この蔵人は内裏の六位など経て、やさし蔵人と言はれける者なりけり。
この蔵人は内裏の六位などを経て、風流な蔵人と言われた者であった。
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