『須磨・心づくしの秋風』(須磨へ出発直前に紫の上と惜別)
「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら源氏物語『須磨』(その日は、女君に御物語~)解説・品詞分解
その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らし給ひて、例の、夜深く出で給ふ。
その日(光源氏が須磨に出発する当日)は、女君(紫の上)にお話をゆったりとし申し上げ、日が暮れるまでお過ごしなさって、いつものように、夜深くに出発なさる。
狩の御衣など、旅の御よそひ、いたくやつし給ひて、
狩の御衣など、旅のご装束を、たいそう目立たない姿になさって、
「月出でにけりな。なほすこし出でて、見だに送り給へかし。
もう月がでてしまったなあ。やはり(見送りの際に顔が見えるように)少し端に出て、せめて見送りなさってくださいね。
いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらむ。
(私が須磨に行ってしまったら)どんなに申し上げたいことがたくさん積もってしまったことよと思われるでしょう。
一日、二日たまさかに隔つる折だに、あやしういぶせき心地するものを。」とて、
一日、二日、たまたま離れている時でさえ、不思議と気の晴れない気持ちがするのになあ。」と(光源氏は)言って
御簾(みす)巻き上げて、端に誘ひ聞こえ給へば、女君、泣き沈み給へる、
御簾を巻き上げて、(月明かりで顔を見るために)端にお誘い申し上げなさると、女君は、泣き沈んでいらしゃるが、
ためらひて、ゐざり出で給へる、月影に、いみじう をかしげにてゐ給へり。
心を静めて、膝をついたまま出ていらっしゃった(女君は)、月の光に(お顔が映えて)、とても美しい様子で座っていらっしゃる。
「わが身かくてはかなき世を別れなば、
「私がこのようにはかない世と別れてしまったならば、
いかなるさまにさすらへ給はむ。」
(女君は)どのような様子で頼る所もなく生きて行かれるだろう。」
と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、
と(光源氏は思って)、心配で悲しいけれど、(紫の上は)思い詰めていらっしゃるので、(何か言葉をかけると)ますます悲しくなりそうなので、
「生ける世の 別れを知らで 契りつつ 命を人に 限りけるかな
生きているこの世に別れがあることも知らないで、命のある限りあなたと一緒にいると何度も約束したことだよ。
はかなし。」など、あさはかに聞こえなし給へば、
あてにならないものだ。」などと、(光源氏がわざと)あっさり申し上げなさると、(紫の上が詠んだ歌は、)
惜しからぬ 命に代へて 目の前の 別れをしばし とどめてしかな
惜しくはないこの命に代えて、目の前のあなたとの別れをしばらくとどめたいものですよ。
「げに、さぞ思さるらむ。」と、
「本当に、そのようにお思いになっているだろう。」と(光源氏は思い)、
いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出で給ひぬ。
たいへん見捨てがたいけれど、夜が明けてしまったならば、体裁が悪いだろうから、急いで出発なさった。
※当時は夜明け前に旅立つのが通例であった。
道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗り給ひぬ。
道中、(紫の上の)面影が浮かび、ぴったり身に添って(いるように感じられて)、胸も詰まる思いのまま、お船にお乗りになった。