「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら平家物語『木曾の最期』(2)解説・品詞分解
今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」
今井四郎と木曾殿は、たった主従二騎になって、(木曾殿が)おっしゃったことには、「ふだんは何とも思わない鎧が、今日は重くなったぞ。」
今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせたまはず。御馬も弱り候はず。
今井四郎が申し上げたことには、「(あなたの)おからだもまだお疲れになっていません。お馬も弱っておりません。
何によつてか一領の御着背長を重うはおぼしめし候ふべき。
どうして一着の鎧を重くお思いになるはずがありましょうか。(いえ、ありません。)
それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。
それは御味方に軍勢がございませんので、気おくれしてそのように思いなさるのです。
兼平一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。
兼平一人だけがお仕え申し上げるとしても、他の武者千騎(に相当する)とお思いください。
矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢つかまつらん。
(まだ、)矢が7、8本ございますので、しばらく防戦いたしましょう。
あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、
あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で、御自害なさいませ。」と言って、馬に鞭打って行くうちに、
また新手の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの敵防き候はん。」と申しければ、
また新手の敵、武者五十騎ほどが出て来た。「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵軍を防ぎましょう。」と申したところ、
木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、
木曾殿がおっしゃったことには、「義仲は都でどのようにでもなる(=死ぬ)つもりだったが、
これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。
ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思うためである。
所々で討たれんよりも、一所でこそ討死をもせめ。」とて、
別々な場所で打たれて死ぬよりも、一つの場所で討ち死にをしよう。」と言って、
馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、
馬の鼻先を並べて駆け出そうとなさると、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口元にとりついて申し上げたことには、
「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候ふとも、
「武士は、長年にわたってふだんからどのような勇名がございましょうとも、
最後の時不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。
(命の)最後の時に失敗したならば、(死後)長きにわたる不名誉でございます。
御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢は候はず。
お体はお疲れになっておられます。(我々に味方として)続く軍勢はございません。
敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等に組み落とされさせたまひて、
敵に押しへだてられ、とるに足らない人の家来に(馬から)組み落とされなさって、
討たれさせたまひなば、
討ち取られなさったならば、
『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、
『あれほど日本中で評判になっていらっしゃった木曾殿を、
それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。
だれそれの家来が討ち申し上げた。』などと申すようなことが残念でございます。
ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、
ただただあの松原へお入りください。」と申し上げたところ、
木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。
木曾殿は、「そういうのならば(そうしよう)。」と言って、粟津の松原へ馬を走らせなさる。
続きはこちら平家物語『木曾の最期』(3)現代語訳